特別企画
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近世石工のルーツ!? 泉州石工の活躍を学ぶ
三重県伊勢市今北山墓地にある宇治橋供養塔(宝篋印塔)。基礎の向かって左側に「石屋大工敬白 泉州日根郡鳥取庄、右側に「天正八年庚辰閏三月十二日 橋御供養」と刻まれている。この供養塔が、どのような経緯で同墓地に移されたのかは不明
●『月刊石材』2023年1月号「新春特集」掲載(一部再編集)
近世石工のルーツ!?
泉州石工の活躍を学ぶ
『月刊石材』2022年8月号で、「石工技能をどう継承するか?〈石積み編〉」と題する巻頭特集を組みました。第60回技能五輪全国大会の「石工」職種が中止になり、若手技能士の不在を危惧してのことです。仕事が減っているからといって、石工技能を絶やすわけにはいかないという思いからでもありました。
そこで本特集では〈石工の歴史〉を振り返ってみます。とくに石都岡崎や庵治産地の石工のルーツともいわれる「泉州石工」にスポットを当てます。
「泉州石工」とは、かつて和泉砂岩の産地として栄えた現在の大阪府阪南市域周辺出身の石工たちのことで、全国各地に石造物を残しました。渡り石工であったり、またその地に定住した石工たちもいました。
『月刊石材』2019年9月号で「未来に残したい石工の宝物」として紹介した正調雀踊保存会黒田屋(宮城県仙台市)の「雀踊」は、泉州石工とされる黒田屋八兵衛が慶長八(1608)年、仙台城(青葉城)落成祝いの宴の際に披露されたと伝わる踊りです。黒田屋八兵衛は同城の石垣造営のために、伊達政宗が招聘した石工といわれています。その子孫で黒田屋十八代目の黒田孝次さんは、黒田石材として仙台の地で石屋を続けており、同保存会の会長も務めています。
宮城県仙台市の祥覚寺にある黒田家の墓所。下段写真の左が初代・黒田屋八兵衛のお墓で、「元文三戌(1738)年八月朔日」「生國泉州日根郡 黒田屋八兵衛」などの銘文が刻まれている
石工集団は「泉州石工」だけではありませんが、そのルーツや活躍ぶりを知ることで、石工技能を改めて誇れるはずです。
・泉州石工のルーツ
「泉州(和泉国)の石工が初めて文献に登場するのは、弘仁五(814)年に成立した氏族の系譜を記した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』です。そのなかの『和泉国神別』の条に『石作連(いしづくりのむらじ)』の記載が見られます。泉州石工がこの石作連の末裔であるかは定かではありませんが、阪南市域の山間部から和泉砂岩が採れることから、少なくとも石の切り出しや加工は、古くから行なわれてきたと考えられます」
こう話すのは、阪南市教育委員会生涯学習推進室の田中早苗さんです。泉州石工や和泉砂岩などについての調査報告書である『阪南市の歴史文化遺産~指定文化財を中心に~』(大阪府阪南市教育委員会、2018年)の企画・編集をされた一人です。
【上】阪南市の歴史文化遺産~指定文化財を中心に~』(大阪府阪南市教育委員会、2018年)。【下】阪南市は、北を大阪湾に面し、南を和泉山脈と接しています。和泉山脈から流れ出る河川が形成した平野部が古くから生活の場となっています。現在の市域は、近世には14ヵ村あり、尾崎・下出等の10ヵ村が「鳥取庄」としてまとまり、残りの箱作等の4ヵ村は「下ノ庄」に属していました(阪南市ホームページより。上図は『阪南市の歴史文化遺産~指定文化財を中心に~』より)
石作連とは
石作連とは石棺をつくっていた集団のようで、『新撰姓氏録』には、「垂仁天皇御世に皇后日葉酢媛命のために石棺を作って献じたことによって、石作連公の姓を賜った」とあり、石作連の氏族は恐らく全国に散在したと思われますが、その一々については詳らかではありません(日本石材史編纂委員会編『日本石材史』1956年)。ちなみに「石作連」の記載は、『新撰姓氏録』の「摂津国神別」の条にも見られ、現在の大阪府内では古くから石工が活躍していたようです。
大阪府堺市にあり、五世紀頃の造営とされる二本木山古墳から見つかった割竹形石棺は、和泉砂岩製と考えられています。また、和歌山県和歌山市にある園部円山古墳の玄室に使われている石も和泉砂岩のようですので(ニュース和歌山/2022年5月28日更新)、和泉砂岩が古墳時代から使われていたことは確かです。
江戸時代の図解入り百科事典である正徳二(1712)年発刊の『和漢三才図会』の「石工」には、『新撰姓氏録』の記載として、「和泉国に石作連がいること、泉州鳥取郷に石工が多くいたこと、近年摂州大坂石工が多く同国御影山の石を使って石器(石製品)をつくっていること」などが記されています。
『和漢三才図会』にある「石工」の記載
(国立国会図書館デジタルコレクション より)
寛政八(1796)年刊行の『和泉名所図会』には、「和泉石ハ其性細密にして物を造るに自在也、鳥取荘・箱作に石匠多し」として、石工が灯籠や狛犬などをつくっているようすが描かれています。和泉石とは和泉砂岩のことであり、同書には次のようにも書かれています。
「名産和泉石 鳥取荘及び下荘箱作村多く出づる 其色青白にして細密なり 石碑を造るに文字顕然たり 京師及び諸国に出る事多し 近年孝行臼というもの 此石を以て作る」
『和泉名所図会』に、「和泉石ハ其性細密にして物を造るに自在也、鳥取荘・箱作に石匠多し」として、石工が灯籠や狛犬などをつくっているようすが描かれている(国立国会図書館デジタルコレクション より)。右頁の中心に立つ男が持っているのものが「孝行臼」。『和泉名所図会』には、「この臼で堅い食物を搗(つ)きやわらげると歯のない老人は味を損ねることなく食べられる」とも書かれている
阪南市教育委員会が所蔵している孝行臼。『和泉名所図会』に描かれているものであり、市の有形民俗文化財に指定されている
京師とは京都のことであり、和泉砂岩が京都や諸国に送られていたことがわかります。これら文献を踏まえると、1,700年代には泉州に多くの石工がおり、和泉砂岩を使ってさまざまな石製品や石造物をつくっていたことがわかります。
泉州石工銘の最古の石造物
「三重県伊勢市今北山墓地にある宇治橋供養塔(宝篋印塔)に、『石屋大工敬白 泉州日根郡鳥取庄』『天正八(1580)年庚辰閏三月十二日 橋御供養』と刻まれています。泉州日根郡鳥取庄とあることから、この供養塔をつくった石工は、現在の阪南市域出身であることがわかります。現時点では、当市出身の石工銘が残る最古の石造物です」(田中さん)
三重県伊勢市今北山墓地にある宇治橋供養塔(宝篋印塔)。基礎の向かって左側に「石屋大工敬白 泉州日根郡鳥取庄、右側に「天正八年庚辰閏三月十二日 橋御供養」と刻まれている。この供養塔が、どのような経緯で同墓地に移されたのかは不明
阪南市教育委員会が平成二十二(2010)年に行なった調査により、「泉州(和泉)」と刻まれた石造物が各地に残っていることがわかりました。同市では、前述の宇治橋供養塔以降の泉州以外の地域で「泉州」や「和泉」、泉州地域と思われる地名の記載がある石造物、地名の記載がなくても年代、氏や名で同一石工、もしくは一族の作と推測できる石造物を、泉州石工の作品としています。その数は800点以上あり、地元の和泉国、摂津国、河内国という現在の大阪府にある石造物を含めると1,000点以上を把握しています。
『阪南市の歴史文化遺産~指定文化財を中心に~』
(大阪府阪南市教育委員会、2018年)より
最北は宮城県塩竈市で、鹽竈神社にある灯籠に「明和九(1772年)壬辰七月」「石工黒田八兵衛」とあり、本特集の前文で紹介した黒田屋八兵衛と関係があると思われます。最南は鹿児島の甑島で、新田神社の手水鉢に「元禄十一(1669)年」「泉州樽井村 宇兵衛」と刻まれています。
泉州石工は北から南まで、石垣、石仏、石塔、灯籠、鳥居など、さまざまな石造物を全国各地に残しました。石材はそれぞれの土地の石が中心であり、砂岩以外の花崗岩や安山岩も加工しています。地元の泉州に目を向けると、阪南市の在銘最古の石造物は、箱作共同墓地にある応永十(1403)年銘の地蔵菩薩立像で、石工銘はありませんが和泉砂岩でつくられています。また、同市内にある大願寺の門前に立つ和泉砂岩製の地蔵菩薩立像には、「天文十五(1546)年」の銘文などと、作者銘として「大工藤原兵衛太夫」と刻まれています。
阪南市大願寺の門前に立つ和泉砂岩製の地蔵菩薩立像。光背の向かって右側に「天文十五(1546)年」などの銘文があり、左側に「大工藤原兵衛太夫」と刻まれている。本像は像高1.92m、総高2.56mを測り、大阪府下で最大級の地蔵石仏立像
古墳時代から近世まで、その途中の泉州石工、和泉砂岩の動向は現在のところ不明です。しかし冒頭の田中さんの言葉どおり、「少なくとも石の切り出しや加工は、古くから行なわれてきた」といえ、泉州石工の各地での活躍を考えると、近世石工のルーツともいえるでしょう。
・和泉砂岩とは?
和泉砂岩は、青緑色を呈することから「和泉青石」とも呼ばれます。和泉砂岩を産出する和泉層群は、約1億~6400万年前の白亜紀後期の堆積岩で、東は三重県から、奈良県、大阪府、和歌山県、淡路島(兵庫県)、徳島県、香川県、そして西は愛媛県にまで分布しています。
和泉砂岩は軟質で細密な加工がしやすく、加工直後の見栄えも良いため、石材として高い評価を受け、阪南市内では桑畑石切場跡群、山中渓石切場跡群、箱作ミノバ石切場跡、箱作細谷石切場跡、箱作谷川石切場跡など、多くの石切場跡が存在します(DVD『泉州石工と和泉砂岩』阪南市教育委員会より。下図も同様)。
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