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高野山石造美術研修【1】高野山麓編・慈尊院と丹生都比売神社の石造群

2023.12.27

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去る11月18~19日の二日間、石文社・お墓100年プロジェクトさん企画の『高野山石造美術研修』に参加させていただきました。
折しもNHK大河ドラマ「どうする家康」の中では、幾人もの武将たちが戦いに敗れてこの世を去って行きましたが、その時代の武将たちの供養塔も多いと聞きます。
また、高野山の供養塔と言えば五輪塔。五輪塔が立ち並ぶ、ここならではの光景を一度見てみたいと思います。
それでは、写真を見ながら二日間の研修を振り返ってみたいと思います。

※掲載の写真は通常非公開の五輪塔等を含めて、ご帯同頂いた木下浩良先生(清浄心院 高野山 文化歴史研究所所長)より写真掲載についての承諾を頂いております。

2ページ目以降はこちらからどうぞ。

2ページ)高野山石造美術研修【奥の院周辺】西南院の五輪塔群・源氏三代五輪塔・明遍墓と伝わる五輪塔群

3ページ)高野山石造美術研修【奥の院1】一の橋から豊臣秀頼・淀君供養塔

4ページ)高野山石造美術研修【奥の院2】蜂須賀家墓所から覚鑁の供養塔

5ページ)高野山石造美術研修【奥の院3】高野山最大お江のお墓から現代の企業墓

丹生都比売神社の五輪卒塔婆

 

開催初日、関西地方は強い低気圧の接近によって真冬のような天候に包まれていました。大阪の繁華街、難波から南海電鉄高野線に乗ります。

難波から約50分集合場所の橋本駅に到着しました。
線路はさらに山奥に伸びて行き、終点の極楽橋からケーブルカー、バスと乗り継いで高野山を目指すというのが、現代の一般的な参拝客のルートになります。
当時都だった奈良や京都からも「近くではないが、誰も行けないほど遠くではない」という距離が高野山が聖地として発展した理由の一つということを、研修中に教わりました。

 

二日間お世話になるバス。高野線の車内では、時折土砂降りの雨粒が車窓を打つような、かなり不穏な天気だったのですが、お昼頃の橋本駅前は少し日差しが見えるほどになりました。

全行程にご帯同頂いた木下浩良先生(清浄心院 高野山 文化歴史研究所所長)。
ブラタモリ高野山編で案内役を務められた方が講師で同行いただける貴重な研修です。

 

今研修の訪問先MAP

橋本駅を出発したバスの車内では、早速木下先生による説明が始まりました。
重機も丈夫な道具もない何百年も前、大きな墓石を標高900mもの山奥深くまで、どうやって運んだのか、というのが気になるところ。
その運搬工程の中で大きな役割を担ったのが、高野山のふもとを流れる紀ノ川だったそうです。

紀ノ川(二日目に撮影)

石が産出されない高野山に、20万基以上の大小様々な石塔が立っていると言われています。
紀ノ川の川岸には、膨大な石を運び込めた一大荷揚げ場があり、川底には運搬中や荷揚げの際に落下してしまった巨石達が今も沈んでいるとか。
バスは最初の視察地、九度山町の慈尊院へ向かいます。

 

高野山参拝の起点、九度山町慈尊院

 

下乗石(げじょういし)
順序は前後しますが、まずはお寺の門前にあるこの石。ここから先は聖域になるため、高い身分の皇族や貴族でも馬や輿を下りて歩いて入るようにという、結界を示した石です。

 

下乗石とは逆側の門前脇に置かれている花崗岩の原石。石を切り出した際の矢穴の跡が残っています。はるばる瀬戸内から船と人力でここまで運んでこられましたが、高野山に運び上げられることはありませんでした。石の持ち主に何かあったのか、使えない石と判断されたのか。ここで余生を過ごしています。

 

さらにその横には大きな五輪塔。高野山と言えば五輪塔。
早速の登場です。

 

本堂脇にある睡蓮を模した池。
弘法大師空海は、高野山全体を蓮に見立て、花や葉のように寺院を配置しました。
それらを結ぶ参道を茎に見立てたそうです。
その「高野山曼荼羅」を簡略化した図がこちら。
左上の葉=慈尊院から大門までが20数キロ。登山道が整備されているとはいえ、徒歩では6時間以上かかります。
大門から奥の院までが標高900メートル、東西約6キロ、南北約3キロに広がる山間の盆地で、ここが一般的に高野山と言われるエリアになります。

 

慈尊院に捧げられた絵馬。
子宝、安産、子供の成長、健やかな授乳を願って捧げられた乳房型絵馬です。
最近では乳がん患者の方からの信仰も篤いとか。

ここは弘法大師空海の母親、玉依御前(たまよりごぜん)が讃岐から訪ねて来た際、息子空海は、女人禁制エリアから外れている山麓のこの寺に母を迎えました。
空海は高野山から母親に会うために月九回山道を往復(!)。それがこの地の“九度山”の名前の由来だそうです。往復50キロ近い山道の往復を3日に1度ペースでやっていたという、弘法大師の超人伝説がここにもありました。

 

その高野山へ登る道は町石道と言われ、目印として知られているのが町石です。
その始点になる石が慈尊院の上にある丹生官省符神社への参道脇にあります。

 

急な階段の脇から少し山道を入ったところに立っていました。ここが高野山への始点となります。

 

慈尊院内に残る板碑

 

山深い曲がりくねった道をバスで上ること30分ぐらいでしょうか。
急に視界が開き、山の中の集落に入ってきました。
かつらぎ町です。かつらぎ町の特産、柿が実る晩秋の風景。

 

丹生都比売神社に入る道脇にある『大念仏一結衆宝篋印塔』。分かりづらいですが、祠の向かって右側の草むらの中に佇んでいます。

 

余談ですが、調べ物の際、Googleストリートビューに残る2年前の光景に驚きました。整備が進んだようです。

 

高野山参道の中途を守る丹生都比売神社に入ります。

平成16年7月7日、世界遺産として登録された丹生都比売神社は、高野山の地主神として空海の高野山開創よりも早く、かつらぎ町天野の地に祀られてきました。
「延喜式」の式内社で、天照大神の妹君にあたる丹生都比売神をはじめ四祭神を祀っている。あでやかな朱塗りの鳥居、楼門、太鼓橋、春日造りの四社殿の華麗なたたずまいは、由緒の深さとともに女神の里のおくゆかしさを感じます。
〈かつらぎ町役場ホームページより引用〉

神様が渡る輪橋。石の柱が支える立派な作りです。
反り橋の形状になったのは淀君が寄進したためと伝わっているそうです。

 

楼門(ろうもん)
1499年(室町時代)建立。現在、国指定重要文化財。

 

この神社の裏に、鎌倉時代~南北朝時代に建てられた石造美術があるとのことで、木下先生にご案内いただきました。

大峯修験者の碑
石柱四基は修験者(山伏)が、大峯入峯に際し建てた五輪卒塔婆 <県指定文化財>。
元々、先ほどの輪橋付近にあったそうですが、大正時代にここに移されたそうです。

手前から
延元元年塔(南北朝時代・砂岩製・総高:3.236m)
正安四年塔(鎌倉時代・緑泥片岩製・総高:2.1m)
1つおいて
正応六年塔(鎌倉時代・砂岩製・総高:2.48m)
文保三年塔(鎌倉時代・花崗岩製・総高:2.79m)
その奥に見えるのが光明真言曼陀羅碑です。

配布資料:「高野山麓天野社境内の五輪卒塔婆形碑伝について」より

五輪卒塔婆は4基とも2石で構成されています。(分割場所は異なる)
町石道に建てられた町石は1石構成。これは木製の卒塔婆を元に1石で作られたためと考えられていますが、こちらは本来の五輪塔に由来して作られたのではないかとのことです。

 

五輪卒塔婆の後ろに五輪塔が佇んでいます。

こちらは総高91.4cmの一石彫成五輪塔です。風輪の下部と火輪の上端が食い込んだ形状の嚙み合わせ五輪塔は、全国的に見て数少ない珍しい形態です。
地輪部分の底面は土に埋まっていますが、ここにも高野山にある五輪塔では珍しくホゾ加工がされており、建立された時は今は失われている反花座の上に立っていたと考えられてるとのこと。
銘文は彫られていませんが、鎌倉時代のものと推定されるそうです。
※配布資料:「丹生都比売神社の一石彫成五輪塔」より

 

光明真言曼陀羅碑1662年(寛文二年)に建立された碑。輪橋から移動された五輪卒塔婆群とは違い、元々ここに建てられていたと伝わっているそうです。円形の額には、時計回りで梵字による光明真言が刻まれています。

 

かつらぎ町を出て、また山道に戻り、高野山へ上がっていきます。

高野山へ続く道は東京スカイツリーの高さを超え、さらに上へと伸びて行きます。

山麓の石造物の見学はここまでです。

次は高野山石造美術研修【奥の院周辺】西南院の五輪塔群・源氏三代五輪塔・明遍墓と伝わる五輪塔群へ