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高野山石造美術研修【2】西南院の五輪塔群・源氏三代五輪塔・明遍墓と伝わる五輪塔群

2023.12.27

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かつらぎ町の丹生都比売神社から曲がりくねった山道を上がること約40分。
いよいよ高野山に入ってきました。高野山の石造物と言えば奥の院の大きな五輪塔群を思い浮かべますが、その周辺にもその時代の名残を今に伝える石造物が数多く残されています。
そうした石造物を巡る、研修1日目~2日目の様子をご紹介します。

※掲載の写真は通常非公開の五輪塔等を含めて、ご帯同いただいた木下浩良先生(清浄心院 高野山 文化歴史研究所所長)より写真掲載についての承諾を頂いております。

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1ページ)高野山石造美術研修【山麓】慈尊院と丹生都比売神社の石造群

3ページ)高野山石造美術研修【奥の院1】一の橋から豊臣秀頼・淀君供養塔

4ページ)高野山石造美術研修【奥の院2】蜂須賀家墓所から覚鑁の供養塔

5ページ)高野山石造美術研修【奥の院3】高野山最大お江のお墓から現代の企業墓

鎌倉時代の源氏三代の五輪塔(西室院・通常非公開)

 

高野山の大門に近い西南院(さいなんいん)に降り立つと11月半ばにも関わらず、うっすら雪が積もっていました。

 

裏手から雪景色の西南院を望みながら山に入っていきます。

木下先生の計らいで拝観が許可された、寺院の裏手にある四基の五輪塔群(通常非公開)です。裏の墓地へ続く道脇に並ぶ五輪塔群。

「石質が細かな砂岩なためすっきりとした表面で、向かって右側から三番目までは各部の釣り合いが見事。五輪塔の美しさを最高に発揮した優秀作である」
※配布資料:『高野山西南院の鎌倉時代砂岩製五輪塔群』より

向かって左から
建長八年(1256年・総高:95cm ※在銘の五輪塔としては最古)
弘安四年(1281年・総高:104.8cm)
弘安十年(1287年・総高:103.2cm)
弘安七年(1284年・総高:104cm)
どの五輪塔も地輪、火輪が嚙み合わせ式で作られており、供養する人が銘文で残されています。

 

弘安四年五輪塔(1281年・総高:104.8cm)

 

建長八年五輪塔(1256年・総高:95cm ※在銘の五輪塔としては最古)

 

 

弘安七年五輪塔(1284年・総高:104cm)

水輪と火輪の間で分割される構造で、水輪内部には奉納孔が穿かれています。

 

さらに山の中へ入った墓地には、無銘の鎌倉時代の五輪塔がありました。

嚙み合わせ五輪塔

この墓地の奥にあった嚙み合わせの無銘五輪塔。写真がないため配布資料より引用。

 

研修初日の最後は鎌倉時代の源氏三代の五輪塔(西室院・通常非公開)の拝観です。

ここでも今回特別に拝観許可をいただけました。鎌倉時代、高野山で五輪塔が建てられ始めた草創期の遺物として代表的なもので、地輪の高さに対する幅の比率が一対二であり、古式の形態の跡が見られるそうです。
※花崗岩製

標高900mの高野山とは言え、この日は11月としては異例の寒さだったそうです。

 

この後、西室院を出て、17時前にこの日の宿坊の大円院に到着。

食事風景等撮り損ねたので大円院のホームページより、夕食・朝食画像を引用。
空海が清水が湧き出た場所を選んだと伝わるだけあり、どの料理もとても美味しかったです。

この日は夕食後、木下先生による高野山の石造物についての講演と続き、石造物一色の初日が終わりました。

 

高野山の各宿坊では毎朝、お勤めがあります。
奥の院で今も祈り続けている弘法大師に毎日昼食を届けられていることにちなんでいるそうです。昨晩の参加者の方から、この「生身供(しょうじんぐ)」という毎朝の儀式のことを聞き、早朝暗い中の奥の院の道を向かいましたが、暗がりの中、初めての道に迷ってしまい間に合わず。

御廟橋手前で夜明けを迎えました。この辺りで「生身供(しょうじんぐ)」を拝観してきたと思われる、自撮り棒を持ったユーチューバー(?)や外国人観光客なども数組すれ違いました。
残念ですが、自分はまたの機会としましょう。

 

研修二日目の最初に訪ねたのは、外国人観光客で賑わう奥の院に続く道から外れた山の中。明遍の墓所があると伝わる場所です。

明遍は、12世紀の中ごろの権力者、藤原氏の一人、藤原信西の子です。信西は平治の乱(1159年)で殺され、信西の男子は出家させられました。その中でも優秀だった明遍は、東大寺や高野山で学び、後に遁世僧となり、高野山に入り蓮華三昧院という念仏集団を作ったそうです。左側のお堂に明遍を供養する石仏が安置されています。

参加された方の提案で、どの墓所でも拝観前にお経を上げさせてもらいました。

苔むした五輪塔。

お堂の中に安置された石仏。
今も大切にお参りされている様子でした。

ここで、地面のあちこちに石塔の欠片や、小さな五輪塔の形状に削った石が落ちていることに気付きます。
高野山の地中には、膨大な数の石塔が埋まっているということを、ここで知りました。

苔むした五輪塔。他の地域では文化財級と言えそうな何百年以上も前の石造物が、あちこちで自然に還っていく姿を普通に見られてしまうのが、高野山のすごさなのかと思いました。

高野山石造美術研修【奥の院1】一の橋から豊臣秀頼・淀君供養塔へ