一般研究員によるトピックス!!
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高野山石造美術研修【4】高野山奥の院・蜂須賀家墓所から覚鑁の供養塔
時間が経つと奥の院に日差しが入るようになり、戦国時代に名を挙げた武将たちのお墓がその中に照らし出される中を奥へと進んでいきます。
墓石の変遷をたどる遺物の中に、現代の大企業の企業墓、創業家の墓があったりと実に様々なお墓が並びます。また、こうした五輪塔がどうやってこの山の上まで上げられてきたのか、その方法の一つも見ることが出来ました。
※掲載の写真は通常非公開の五輪塔等を含めて、ご帯同頂いた木下浩良先生(清浄心院 高野山 文化歴史研究所所長)より写真掲載についての承諾を頂いております。
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1ページ)高野山石造美術研修【山麓】慈尊院と丹生都比売神社の石造群
2ページ)高野山石造美術研修【奥の院周辺】西南院の五輪塔群・源氏三代五輪塔・明遍墓と伝わる五輪塔群
3ページ)高野山石造美術研修【奥の院1】一の橋から豊臣秀頼・淀君供養塔
5ページ)高野山石造美術研修【奥の院3】高野山最大お江のお墓から現代の企業墓
阿波徳島蜂須賀家墓所。昨日と打って変わり、暖かな日差しが入ってきました。
研修参加者の方による写真(冒頭の後ろ姿の方の写真)。梵字に朱が入っています。
伊達政宗墓所入口の鳥居に生えた小さな若木。自然が石塔をゆっくりと飲み込んでいく光景があちこちで見られます。
薩摩島津家初代家久・二代光久・綱久墓所
石田三成墓所総高は2.7m。三成、30歳の時に逆修供養をして建てた生前墓とのことです。
建てられた当時(天正18年)、高野山の石塔の中では最大の大きさで、三成の所領(3万石)からすると、彼の弘法大師信仰の篤さを物語っているそうです。
※配布資料:高野山における石塔造立の変遷(史跡と美術)より
明智光秀墓所。
時代が変わり関西の鉄道王と言われた方の墓所
財閥系氏族の墓
二十町目の町石
電機メーカー創業者と社員の供養塔。企業墓としては一番古いそうです。
その隣に
真言宗中興の祖、覚鑁の供養塔墓所の中央に灯篭と木が配置され、それを迂回するように構成された参道
「どうする家康」でもシーンがあった朝鮮出兵。島津家が建立した戦死者の供養塔がありました。
ふぐの供養塔
丹念な彫刻に、ふぐ(山口では「ふく」と呼びます)への愛を感じました。
教科書に載るような偉人や出来事を象徴する石塔の足元には、庶民が想いを託して置かれた数々の供養塔。ここにも暖かな日差しが降り注ぎます。
倒木による墓石倒壊現場にて。そこで昔作られた部材の中を見ることができました。
五輪塔の水輪の中。丸い穴が貫通しています。
地輪の中。ここも丸い穴が貫通しています。水輪を受けるホゾが彫られてあります。
こういった丸い貫通穴は、山の麓からここまで人力で持って来るために、担ぎ棒を通して複数人で運び上げるための穴だそうです。あくまで運搬用に開けられた穴で、何かを奉納するために使われるようなことはなかったとのことです。