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高野山石造美術研修【5】高野山最大お江のお墓から現代の企業墓
奥の院を一の橋から御廟橋へ進んでいった順に並べているので、時代や関係性が混然とした構成になってしまいました。時代や人の背景はそれぞれとしても、人々の供養心の全てが集まっている高野山の雰囲気を感じて頂けたらと思います。
高野山最大の五輪塔と言われるお江の方のお墓から、現代の大手企業、著名人のお墓をご紹介してこの研修記の最終回とさせていただきます。
※掲載の写真は通常非公開の五輪塔等を含めて、ご帯同頂いた木下浩良先生(清浄心院 高野山 文化歴史研究所所長)より写真掲載についての承諾を頂いております。
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1ページ)高野山石造美術研修【山麓】慈尊院と丹生都比売神社の石造群
2ページ)高野山石造美術研修【奥の院周辺】西南院の五輪塔群・源氏三代五輪塔・明遍墓と伝わる五輪塔群
3ページ)高野山石造美術研修【奥の院1】一の橋から豊臣秀頼・淀君供養塔
4ページ)高野山石造美術研修【奥の院2】蜂須賀家墓所から覚鑁の供養塔
江戸幕府の時代に入ると高野山の供養塔は更に大きくなっていきます。
高野山で最大の石塔と言われる、徳川秀忠夫人お江の方の五輪塔。「どうする家康」では、マイコさんが演じていらっしゃいました。
五輪塔のみで高さは6.66m。基壇を合わせた総高は8mを超えます。
裏側に回ると、こんな所にも誰かの手によって小さな石仏のような石塔が置いてありました。
基壇の石は二つ合わせですが、どうやって建て上げられたかは謎とのこと。
ここに運び込まれた時は原石だったのか、加工されていたのか。ピラミッドのように周りに土盛りをして石を積んでいったのだろうか?などの会話が交わされていました。
浄土宗開祖法然上人墓所。
結城秀康(徳川家康の次男)墓所。
忠臣蔵でおなじみ、浅野内匠頭墓所。
同じ高さの五輪塔が並んだ奥の院らしい光景。石材メーカーのポスター用に写真に撮られている墓所だそうです。
豊臣家墓所
奥の院、御廟橋手前にある五輪塔。
奥の院では珍しい、嚙み合わせ式の五輪塔です。
これも高野山では珍しい宝篋印塔。
御廟橋を渡ると、入定された弘法大師空海に安心して修行をしていただくためとのことで写真撮影や飲食・通話禁止。
弘法大師御廟の拝殿にあたる燈籠堂が昭和37年に建て直された際、板碑や石塔が大量に出土しました。その数は1万基とも言われているそうです。ここまで何度か書きましたが、おそらく現在20万基はあると言われる高野山の石塔ですが、その何倍もの板碑や石塔が地中に埋まっていることが想像できます。
建てられたり、持ち寄りされた石塔が整理されていく中で、現在のような光景になっていったと木下先生は考えられているそうです。
御廟橋の近くまで道路が来ており、駐車場からの広い参拝道両脇には戦後建てられた主に企業墓が並んでいます。
飲料メーカーの供養塔
自動車メーカーの従業員慰霊碑
戦後芸能界をけん引した一家のお墓
かつらメーカーの供養塔。毛根や髪の毛のご供養もされていたり?
靴下メーカーの供養塔
航空機メーカーの供養塔
現代のお墓が並ぶ中に浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のお墓がありました。
廟の中には、三角錐の火輪を乗せた小さな五輪塔が収まっています。
まとめ
お墓や供養のデザインに関わる者として、このストーリー性の大切さをあらためて感じました。
高野山のあちこちに残る弘法大師空海に関する言い伝え。千年以上語り継がれてきたストーリーが、高野山についてより一層興味を引き立てます。何度も訪ねる人が多いというのもうなずけました。
高野山開山時の日本人にとって、死は今では想像できないほど身近にあったことでしょう。人々はいつ来るかもしれない死後の世界では、せめて地獄には落ちないようにと、老若男女、身分関係なく、切実に願っていたのだと思います。
真言宗の総本山ということですが、元々の地の神様と一緒になった神仏習合の風景が普通に見られます。また、様々な宗派の開祖が祀られており想像以上に門戸が広い聖地の姿に驚かされます。供養の心を宗派や思想で区別しない、という考えなのでしょうか。明治維新後の廃仏毀釈の動きに見られるように、今の私たちは他人と違う点を意識的に見つけるようになってしまっているのではないかとも感じました。
千年以上前から数多の人々が捧げ続けてきた、大小様々な石塔が集まってできた高野山。日本で唯一無二の墓地だと感じたことを記して、ここで研修記を終えたいと思います。