特別企画
お墓や石について、さまざまな声をお届けします。
沖縄国際大学准教授 宮城弘樹「沖縄の葬墓制史と平安座島トゥダチ墓の石厨子」(前)
今帰仁城跡(今帰仁村)の石垣。城壁のラインが曲線となる点は琉球のグスク石垣の特徴である(筆者・宮城氏撮影)
琉球の石造文化財を探る
九州島の南方に約1000キロメートルに連なる島々からなる琉球列島は、かつて王国として一国を成し、独自の文化を築き上げました。私は、琉球列島の遺跡を対象とする考古学を専門としています。現在は沖縄国際大学で教鞭をとっておりますが、着任する以前は地域の文化財を管理する職員として、地方自治体で働いていました。
最初に勤めたのが今帰仁村という村で、世界遺産にもなった今帰仁城跡という遺跡の調査や石垣の修理事業などを担当させていただいておりました。石垣が構築されたのは、14世紀後半とか15世紀頃なのですが、この石垣のことを調べていくと、グスク(城などのグスク時代の遺跡)だけでなく道路や屋敷囲い、御嶽(※1)の石門、水が滾々と湧き出る湧泉の石積みなど多くが石造りであることを知りました。
そこで、今回紹介するお墓も、グスクの石垣の延長で島々に残る同じ石造物として関心を寄せるようになりました。
上空から撮影した中城城跡(中城村)の俯瞰写真。
丘陵を取り囲むように石垣が何重にも配置されている(中城村教育委員会提供)
※1……琉球における信仰の対象となった聖地。国の祭祀を執り行なう聖地として為政者によって整備された立派な門を備えたものもあれば、地域の信仰を集める聖域として地元によって整備された簡素だが美しい石門も少なくない。
ペリーも絶賛した石垣
琉球列島の島々というのは、そもそも数千、数百万年前は海の底だったところで、その大部分がサンゴ礁の隆起した琉球石灰岩であるという特徴があります。琉球石灰岩は比較的加工が容易で、島のいたるところで採掘できることから古くから様々な建造物の石材として利用されてきました。
先に紹介した今帰仁城跡を含む、14世紀から16世紀に築かれたグスクは、秀逸な城壁美を誇り、世界遺産にも登録されています。中でも首里城跡、中城城跡、勝連城跡、今帰仁城跡などのグスク石垣は見事で、今も多くの観光客が訪れています。これらの石垣は熟練した石工の手によるものと考えられ、時代によって技術が異なることも指摘されております。
また、時に遠くの島へ赴くと、その島の重要な建築物の建造にもその技がいかんなく発揮させていたことを島々の遺構から知ることができます。
1853年、日本に開国を促したアメリカのペリー提督一行は、日本本土(沖縄以外の本邦の地域)へ向かう途中に来琉し、島内探検隊を派遣して中城城跡の視察調査を行なっています。ペリー監修『日本遠征記』には「……要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築物は賞讃すべき構造のものであった。……(中略)……非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いてないが、この工事の耐久性を損なうようにも思わなかった」と記され、グスク石垣の技術の高さを賞賛しています。
ペリー監修『日本遠征記』に描かれた亀甲墓
(栄光教育文化研究所『ペリー艦隊日本遠征記』1997より)
失われた技術を実物で残す
近年このような琉球の石造文化財への関心は高まりつつあります。しかし、14~15世紀のグスク石垣と、主に17世紀以降の王国時代に築かれた石造建造物、そして王国解体以後の近代石造建造物に関する技術史については、詳らかにされているとは言い難いところがあります。
かつて、戦前まで琉球には美しい石造建造物が多数存在していました。首里城はその代表的な文化財ですが、他にも美しい屋敷囲いをもった家や立派な橋梁などが存在していました。
しかし、先の太平洋戦争によってその多くが失われてしまいました。現在見る首里城の石垣もその大部分は、戦災によって失われたものを発掘や古写真や図面などに基づいて復元されたものなのです。地上部分では失われてしまった往時の石造文化財も、地下にはしばしば遺構が遺されていて、発掘調査によって再発見されることがあります。
那覇市首里当蔵町の龍潭のほとりで道路改良工事中に見つかり、
良好な状態で検出された石造りの旧水路。
県民からの強い要望で保存されることになった(筆者撮影)
発掘された石切場跡
沖縄では採石場を「石切場」と呼びます。グスク時代に遡る石切場については明確ではありませんが、近代の石切場の調査が実施されています。浦添市教育委員会が実施した浦添西海岸の石切場跡の調査では、様々な痕跡から、海岸の石を切り出す工程が復元されています。
採石の工程は下図のとおり、まず①「カニガラ」と呼ばれる先端の尖った鉄の棒で溝を彫る作業を行ないます。次に②「イヤ」と呼ばれる鉄製の楔を打ち込み、あわせて③石を横に切るためにイヤを打ち込みます。最後は④石を割り取るためカニガラを用い石材を持ち上げ、地面から剥ぎ取り石材を運搬する
――という工程が遺構調査や文献調査、聞き取り調査、博物館等に保管されていた民具調査などから復元されています。
構の痕跡や聞き取り調査などから復元した石切り作業のイメージ図(作画・青山奈緒)。
浦添西海岸の石切場跡(浦添市教育委員会提供)
葬墓制の特質
琉球王国の葬送、墓制は日本本土とは大きく異なっています。本土では檀家制度がありますが、沖縄では檀家制度は定着しませんでした。琉球独自の信仰である自然を崇拝し、祖先を敬う文化があって、土着の風葬、島に根付いた他界観を基層に、島々で多様なあり方を見せています。
当然、その墓地景観は、寺内に墓石を建てる本土の景観とも大きく異なっています。これは、王国時代の社会階層や各島々においてそれぞれ体系化されていったと考えられています。
琉球の墓は一般的に墓敷(墓地)が広く規模も大きくなっています。亀甲墓はその代表的な墓形式として広く知られています。その構造は、岩壁に横穴を掘り、人が出入りすることができる広い墓室が設けられています。
墓には血縁、地縁により何世代にもわたり納骨が行なわれます。一般に門中墓とムラ墓とがあって、前者が血縁、後者は地縁によって利用、管理されています。
門中墓は父系の一族が代々葬られる墓で一般に士族(※2)の墓がこれにあたります。他方、ムラ墓は庶民百姓の間で広く用いられており、洞窟墓や共同墓に葬られるのが主流となっています。
琉球において特徴的な亀甲墓は、17世紀後半に中国から伝わり出現したものです。屋根を亀の甲羅様の意匠にするところは中国由来の造形とされています。一方で、その墓室内の形状等は在来の墓形式に由来しているものと理解されています。
※2……沖縄の身分は大きく士族と百姓に分かれていた。士族は「サムレー」、あるいは系図・家譜を持つ「系持」と呼ばれ、百姓は「無系」と呼ばれた。
国王の墓所「玉陵」
琉球の墓制の特徴の一つに蔵骨器を挙げることができます。蔵骨器は沖縄では「厨子」と呼ばれ、石製のものは「石厨子」、陶製のものは「厨子甕」と呼ばれています。厨子の呼称や貼付け文などの意匠から、仏教文化の影響を受けていると理解されています。
窟墓。厨子甕内に洗骨された遺骨が納められている(筆者撮影)
石厨子はその形態に時間的推移があり、古いものでは15世紀後半から17世紀中頃に、有力者の蔵骨器として中国から持ち込まれた輝緑岩製石厨子が始原と考えられています。やがて、島の石灰岩で石厨子が製作され、加工の容易な海のサンゴ石灰岩を石材とする石厨子が利用されるようになります。
那覇市首里に所在する琉球国王(第二尚氏)の陵墓である玉陵は、1501年に建造されたもので、その外観は古琉球期の首里城を模したものとされ、死後の王宮となっています。玉陵墓室は三室あり、東室に王と王妃、西室には王族のお骨が納められています。中室は洗骨(後述)が行なわれる前の遺体を安置する場所となっています。
第2尚氏王朝の歴代国王を祀る玉陵(那覇市首里金城町)=筆者撮影
玉陵の平面図(文化財建造物保存技術協会『玉陵復元修理工事報告書』1977より)
個性的な厨子の世界
王と王妃の亡骸を納めた厨子は、第二尚氏王朝第13代国王・尚敬王(1700~1751年、1759年洗骨)の蔵骨器以降、陶製の厨子に変わりますが、それまでは基本的に石でつくられました。18世紀も中頃になると陶器生産が盛んになり、王族の厨子も陶製の厨子に入れ替わります。しかし、18世紀中頃以降も、本島中部の特に中城湾に面した村々では石製の厨子も多用されています。
石厨子の形は家形の造形をとっており「御殿形」と呼称されています。屋根部分が蓋となり、身の部分(本体)が身舎部分になります。身正面や口縁、蓋内側などに死者の名前や死去・洗骨年が記載されます。地域によっては、地元のサンゴ石材でつくった石厨子が利用されています。
玉陵内に安置されている尚敬王の厨子(陶製、御殿形)
尚円の厨子(1476年卒、輝緑岩製)
尚貞の厨子(1709年卒、石灰岩製)
※写真3点とも文化財建造物保存技術協会『玉陵復元修理工事報告書』1977より
葬送のようす
沖縄の伝統的葬儀は、風葬で洗骨を行なう点にあるとされています。洗骨とは、遺体を墓室手前の「シルヒラシ」と呼ばれる空間でいったん骨化させ、数年後に墓を開けた折にお骨を洗い、専用の蔵骨器「厨子」に納骨した後に、墓室内の棚に安置する葬送です。玉陵では中室という骨化させるための墓室があります。一般には、墓室内にシルヒラシを持ちますが、いったん土葬して、その後掘り起こしてから洗骨する地域もあります。
厨子に納骨された骨は記銘され、墓室内の棚に並べられます。正面奥が一門の祖、あるいは、その家の興隆の人物であることが多いようです。南部の門中(父系の同族集団)を中心に33年忌を迎えると、墓内部の奥にある「イケ」と呼ばれる墓室奥室に骨をこぼす(合葬する)ことが行なわれる地域もあります。これをもって、記銘された厨子に入り祖先が特定できる状態から、多くの祖先様とともに祖先神となります。こうして故人の骨に2度あるいは3度触れて送る点は、琉球の葬送の特徴の1つとなっています。
琉球列島の葬送儀礼、洗骨のようす(『琉球風俗図』国立国会図書館デジタルコレクションより)。風葬や土葬した遺体を、何年か後にお酒などで洗い清め、厨子に納骨しお墓に入れる
沖縄では「夫婦の甕の尻は1つ(ミートゥンダヤカーミヌチビティーチ)」という諺があります。これは、洗骨後に納骨する際は、夫婦の遺骨は同じ厨子に納める、という意味になります。実際に、墓の調査では、男女の遺骨が一つの厨子甕に納められた事例が報告されています。
墓参りは、在来の伝統的な行事旧暦1月16日に行なわれる「ジュウルクニチ」と、18世紀中頃に中国より伝来した「清明祭」が行なわれます。後者は門中墓に一族が集まり料理をお墓にお供えした後、みんなでお供えしたご馳走をいただくことから、ピクニックのような行事として、親族の親睦の場にもなっています。
清明祭は、中国人居留区であった久米村(現那覇市久米)からはじまり、士族を中心に本島中南部に広がりました。しかし、本島北部や宮古と八重山では受容されず、それ以前からあるジュウルクニチが現在でも一般的に行なわれています。
久米島ヤッチのガマ(洞窟)で発掘調査され、図化された厨子甕内の遺骨の状況(沖縄県立埋蔵文化財センター2001『ヤッチのガマ・カンジン原古墓群』沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書6より)。頭骨が2つあることから2体の合葬とされ、また人類学の調査結果から男女であったこともわかっている
先祖の残した同時代資料
沖縄の葬墓制は、学術的にも研究対象として関心が寄せられてきました。近年では「墓」をテーマとした総括的な研究会や大規模な展覧会も開催されています。
一方で、現在これら琉球王国時代の墓が都市開発等によって一部地域では移転され急速に消失しつつあります。これに加え、門中宗家あるいは伝統集落の墓管理を担う家々の高齢化によって墓環境が悪化し、墓じまいが行なわれる例が増えています。近世以来の伝統的な墓は鬱蒼とした山中にあって、管理が容易でアクセスの便の良い近代的な墓地に移送・改修される例も増えています。近世に遡る伝統的な墓の景観が今、急速に失われつつあるのです。
都市部では開発に伴う埋蔵文化財行政の調査対象として発掘調査が実施された例も少なくありません。このため、発掘された葬墓制資料が、琉球王国時代の同時代資料としてその研究を深化させつつあります。
例えば、発掘墓で発見される文字資料から王国時代の家族史を復元したり、人骨を調べることで往時の生活史を探る研究が行なわれています。沖縄では、戦災によって多くの文化財が消失しましたが、お墓は戦火を免れ、貴重な同時代資料を守ってきました。いわば祖先が残し、戦火を免れた琉球王国時代の文化財を受け継いだ大変貴重な「保管庫」と換言することができるのです。
浦添市の古墓で発見された御殿形厨子の内側に記された「銘書(ミガチ)」と呼ばれる文字資料(筆者撮影)。故人名と死去・洗骨年を記すのが一般的だが、中にはこのように墓建造や故人の事績が記されるものもある
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【プロフィール】
宮城弘樹(みやぎ・ひろき)
1975年生まれ、沖縄県名護市出身。沖縄国際大学准教授。専門は考古学。1997年今帰仁村教育委員会。2012年名護市教育委員会を経て2015年から現職。主に琉球列島の先史時代からグスク時代の社会史に関心をもって研究を行なう。主な著書に、「グスク時代に訪れた大規模な島の景観変化」『先史・原史時代の琉球列島《ヒトと景観》』(六一書房)のほか、片桐千亜紀・宮城弘樹・渡辺美季『南西諸島の水中文化遺産~青い海に沈んだ歴史のカケラ』(ボーダーインク)などがある。
※『月刊石材』2020年7月号より転載