特別企画

お墓や石について、さまざまな声をお届けします。

沖縄国際大学准教授 宮城弘樹「沖縄の葬墓制史と平安座島トゥダチ墓の石厨子」(後)

2021.01.18

上空から撮影した平安座島トゥダチ墓(うるま市)の全景
(以下、トゥダチ墓関係の写真、図は筆者提供)


平安座島トゥダチ墓の調査

  沖縄本島の東海、うるま市に「平安座島」という面積約5平方キロメートルの小さな島があります。現在は橋が架かり、車で渡ることができますが、島の南側に1,200人ほどが暮らす集落があり、漁業が盛んなことで知られています。
 集落東側の石灰岩の崖壁に横穴を掘った掘込墓があります。この墓は「トゥダチ墓」(※1)と呼ばれ、集落の複数の門中によって現在も墓参が行なわれています。

※1……「トゥダチ」は本墓の立地する地名で、その語源は崖壁の形が船尾に似ていて、当地の方言「トダテ」に由来するというもの、あるいは崖に並んだ三つの墓口を三又銛に見立て、その名称「トゥダ」から名付けたのではないか、と解釈されています。

 ちょうどお墓に関心を寄せていた私は、地元の方々から墓調査について協力を求められたことをきっかけに、調査にご賛同いただいた様々な研究分野の専門家とともに調査を行なうことになりました。
 墓が立地する崖は、現在は車で近くまで行くことができるようになっていますが、島に周回道路ができる数十年前までは、干潮時に歩ける程度で「この崖壁に直接波が打ち寄せるような場所だった」と地元の方に教えていただきました。現在の地面から、ハシゴを使わなければ届かない場所に墓口が3ヵ所穿たれています。調査するにあたり、東から仮に1、2、3号と名付けました。
 1号が最も低い場所にあり、一番高い場所に3号の墓口が設けられています。ただし、3号に厨子はなく、また墓として利用された明確な痕跡は残されていませんでした。

 沖縄のお墓はその使われ方によって2種類あります。1つは、死者が出た折に実際に墓を開けて納骨する「当世墓」と呼ばれているお墓です。もう1つは、遠い祖先が祀られ各門中の祖霊となる骨が葬られた「神墓」あるいは「神御墓」「按司世」などと呼ばれるお墓です。
 各門中が行なう清明祭では、各家の祖先の墓を幾つか順番に墓参するのですが、このとき最初に墓参するお墓が神御墓となります。トゥダチ墓も、地元の門中の方々にとって当世墓に行く前にこの墓で拝むとされています。
 
 神御墓は通常閉塞されていますので、中を窺うことはできません。今回の調査では、うるま市、平安座区及び地元門中の方々にご協力いただき、2018年に1号、翌年2019年に2号の調査を実施することができました。
 調査は、墓口を開けて、墓室内に入り、測量を実施し、厨子(蔵骨器)は原位置のまま可能な範囲で撮影や計測を行ないました。調査には考古学、文献史学、人類学、民俗学の専門分野の方にご参加いただき、測量、厨子の撮影、記銘の有無確認と判読、一部厨子に関しては人骨の納骨状態などを目視で確認しました。

様々な研究分野の専門家とともに行なわれたトゥダチ墓2号での調査のようす

 

トゥダチ墓の内部のようす

 トゥダチ墓(1、2号)は現在、石やブロックを積んで閉じてありますが、調査の結果、墓口の天井に溝などがあることから古くは板などで閉じられていたのではないかと推定することができました。いずれも大人が屈んで入れるくらいの墓口を潜ると墓室になります。
 墓室空間は、1号が幅約7メートル、奥行約5メートル、高さ約2メートル。2号が幅約8メートル、奥行約5メートル、高さ約2メートルを測ります。前者は、墓室のほぼ中央に柱状に残された石灰岩柱が1本、後者には2本の柱が配置されています。1号と2号はおおよそ同じ規模の墓室空間でありながら、棚のつくりなどが若干異なることも確認されました。

トゥダチ墓1号の内部と平面図

 墓室内にはお骨を納めた厨子がたくさん並んでおり、1号の厨子の個数は79点、2号では109点確認されました。それぞれの内訳は、1号はサンゴ石灰岩製石厨子が51点、厨子甕が13点、陶製御殿形が5点、転用(専用の蔵骨器ではなく、水甕や壺を利用したもの)が10点で、これに蓋1点が加わります。2号では、サンゴ石灰岩製石厨子が92点(蓋のみのものも含むため暫定的な数値)、厨子甕が4点、陶製御殿形は無く、転用が13点となっています。

 2号は、厨子の蓋に不自然な組み合わせが見られ、かつ蓋がずれたり、いくつか重ねられたりなどの状況が観察されました。このことから、2号は過去に墓泥棒などによって被害を受けたのではないかと考えています。


トゥダチ墓2号の内部と平面図

文字を読む

 銘書は現在整理中ですが、1号は銘書の有する厨子が29点確認されました。年号の記載された紀年銘資料を見ていくと、「大清雍正八年戌(1730年)」の紀年銘が最古例となり(「雍正」は清の第5代皇帝の名称)、最も新しいものでは「明治三十三年(1900年)」のものが見られました。
 明治のものは墓口に近いところに安置されていたことから、戦前まで追葬されていたものと推定することができました。このことは、聞き取り調査によっても追認されています。文字資料からは18世紀前半から19世紀まで利用されたことが明らかになりました。

 一方、2号では「雍正三年(1725年)」の記載が見られ、1号に比べて5年ほど古い紀年銘を持つ資料が確認されております。5年という僅かな年代の違いはありますが、全体的に石厨子が主体を占め、その石厨子と厨子甕などの比率に大きな相違も見られないことから、ほぼ同時期に利用が続いた墓と考えられました。
 一号に安置された石厨子で最も注目されたものは、墓室の奥に安置されていた、前述の「大清雍正八年戌」の紀年銘を持った2層造りの大型の石厨子が挙げられます。

トゥダチ墓1号に安置されていた石厨子(写真左は銘書の一部を近影したもの)。高さ85cm、幅72㎝、奥行き46cmの大型の厨子で、身の正面には「大清雍正八年戌」の紀年銘とともに「石寺」や「平安座」「読谷山大嶺大しゆ」などの文字があり、また身側面には「南無阿弥陀仏」の文字を判読することができる(筆者撮影)


トゥダチ墓からわかること

 トゥダチ墓は、1720年代の故人を元祖とし、以後代々集落の人々を葬ったお墓と考えられます。1、2号ともに少なくとも戦後は既に利用されておらず、神御墓として利用されたものと思われます。それぞれ約百点を数える厨子には、1人だけ葬られているものもあれば、4体以上合葬されているものもあって、数百人の平安座集落の複数の門中の祖先が、長年にわたり葬られたことが明らかになりました。

 トゥダチ墓について特筆すべき点は、何といっても石厨子の豊富さにあります。中城湾に面した、現在の市町村でいうところのうるま市、沖縄市、中城村、西原町では、サンゴ石灰岩でつくった石厨子が多用されるお墓がこれまでにもいくつか調査されておりますが、本トゥダチ墓はその中でも特に多くの石厨子が確認されました。
 実は平安座島は、石油コンビナート建設によって島の高台にあった墓地の多くが1968年に移転されています。この移転時のようすを撮影した写真(下)にも多くの石厨子が見られ、本地域が石厨子を多用する地域であったことが窺えます。

石油コンビナート建設に伴う墓地の移転作業のようす
(新屋敷勝雄氏提供)


トゥダチ墓の石厨子

 石厨子は昭和初期まで製作されていたとされており、聞き取り調査では「地面に穴を掘り、石に鉄楔を立てて割り、浜で粗けずりし、3、4人で家へ運んで仕上げをした。この石は俗に『海石』といい、純白である。……(中略)……斧を使っての作業が容易にでき、仕上がりもよい。シャチホコもつけるので、最後の仕上げはノミを使う。農業のかたわらにやるので、数日かかったが、専念すれば三日間位で仕上がった」(上江洲均、1980「沖縄の厨子甕」『日本民族文化とその周辺 歴史・民族篇』新日本教育図書)とされています。

 トゥダチ墓の調査では、1号・2号あわせて約百四十点の石厨子が確認されています。これらの資料は琉球王国時代の約二百年の石造技術の変遷史を語る貴重な資料として、今後さらなる研究が行なわれることが期待されます。

 

 

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【プロフィール】
宮城弘樹(みやぎ・ひろき)
1975年生まれ、沖縄県名護市出身。沖縄国際大学准教授。専門は考古学。1997年今帰仁村教育委員会。2012年名護市教育委員会を経て2015年から現職。主に琉球列島の先史時代からグスク時代の社会史に関心をもって研究を行なう。主な著書に、「グスク時代に訪れた大規模な島の景観変化」『先史・原史時代の琉球列島《ヒトと景観》』(六一書房)のほか、片桐千亜紀・宮城弘樹・渡辺美季『南西諸島の水中文化遺産~青い海に沈んだ歴史のカケラ』(ボーダーインク)などがある。

※『月刊石材』2020年7月号より転載