特別企画
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高遠石工 守屋貞治の美意識 | 伊那市立高遠町歴史博物館 主査 福澤浩之
守屋貞治作、延命地蔵菩薩
文政期(1818-1830)、大泉寺蔵(長野県木曽町三岳)
●特別インタビュー/『月刊石材』2025年5月号掲載(一部再編集)
高遠石工 守屋貞治の美意識
伊那市立高遠町歴史博物館 主査 福澤浩之
伊那市立高遠町歴史博物館 主査 福澤浩之 さん
春季企画展「高遠石工 守屋貞治の美意識」が6月15日(日)まで、長野県の伊那市立高遠町歴史博物館2階の第3展示室で開催されています。
見どころは、まず守屋貞治がつくった石仏を4体展示している点です。いずれも屋内で安置されてきたものといい、風化はほとんど見られず、見事な出来栄えの石仏です。
江戸時代を代表する石工の「守屋貞治の美意識」はどこから生まれたのか? 伊那市立高遠町歴史博物館・主査の福澤浩之さんに企画展の注目点などを聞きました。
春季企画展「高遠石工 守屋貞治の美意識」は
長野県の伊那市立高遠町歴史博物館2階の第3展示室で開催中
◎ 守屋貞治(もりや・さだじ)
守屋貞治は明和2(1765)年に藤澤郷塩供村(現伊那市高遠町長藤)の孫兵衛の三男として誕生。守屋家は祖父も父も石工という石工一家。寛政8(1796)年3月の宗門帳には貢益(35歳)が当主として記されており、弟の定治(貞治、27歳)は石切無判と記されている。享和元(1801)年の宗門帳には貞治(34歳)が当主として記されている。寛政12(1800)年頃から石塔・石仏を造立。
貞治は333体の石仏彫像を目標としており『石佛菩薩細工』という目録を認め、天保2(1831)年9月に成就したことを記している。最終的に3体追加し、336体目を納めた約2ヵ月後の天保3(1832)年11月19日に、68歳の生涯を閉じた。
企画展では守屋貞治がつくった石仏を4体展示。
背面もしっかりと見ることができる。見どころの1つ
・貞治の石仏4体を見ることができる
今回の企画展の見どころは、まず守屋貞治がつくった石仏を4体展示している点です。貞治は自分が手掛けた石仏336体を『石佛菩薩細工』に記しましたが、展示品はそのうちの4体で、いずれも会期中お借りしておりますが、これまで屋内で安置されてきたものです。
貞治の石仏は現在、ほとんどが屋外にあります。建屋など屋根を付けてもらうなどして大切にされていますが、屋内に安置されてきた石仏は、納めてもらった人々の「この石仏は風化させてはいけない」という思いが強かったのでしょう。「制作直後」と感じさせるほどたいへん美しい状態で、当時の思いが伝わってきます。
この4体を見ると、貞治がつくった石仏の特徴がよくわかります。まず、お顔に特徴があり、とても柔和な表情ですが、かなり細かくつくり込まれています。ともすると、人の顔そのものといってもよいくらいで、たいへん自然な表現になっています。また、お顔や宝珠を磨き込んだ場合もあり、表面の光沢とそうでない部分が巧みに表現されています。
ただ、貞治の作品のすべてがこうした表現ということではなく、石材の特性や願主の依頼などが影響しているのではないかと思っています。いずれにしても、経典や儀軌という仏の姿の決まりごとに忠実に従い、細部まで美しくつくられているところから、石仏の表現の可能性を大きく広げています。
細かい特徴でいうと、貞治本人としては、「リアルではあるけれども壊れにくいものを」という意識があったようです。たとえば錫杖であれば、正面から見るときれいに錫杖を持っているように見えますが、横から見ると錫杖は胴体とつながっています。つまり、「錫杖が折れないように」という計らいを感じます。
守屋貞治作、延命地蔵菩薩
文化期(1804-1818)、大蔵寺蔵(長野県駒ケ根市)
一方で、貞治の弟子である渋谷藤兵衛がつくったであろう石仏になると、錫杖は胴体に接することなく、一本の棒になっています。石工それぞれの違いだと思いますが、高遠石工の場合、錫杖は胴体とつなげてつくることを伝統としてきたようなので、貞治は伝統的な技法を守りながら、仕上げは独自の感覚で表現したのだと思います。
貞治の弟子である渋谷藤兵衛がつくったと推定される延命地蔵菩薩
江戸時代後期~末期、善福寺蔵(長野県駒ヶ根市)
また今回展示している4体のうち、3体に日輪光背が付きますが、いずれも石仏とつながっており一つの石からつくられています。貞治以前の高遠石工は、光背のなかの部分をくり抜くような技法はなかったと思われます。他の石工集団ではわかりませんが、貞治の技法は当時、画期的な技法であり、その後の高遠石工に大きな影響を与え、似たような作品が出てきます。
守屋貞治作、佉羅陀山地蔵菩薩
文政期(1818-1830)、羽淵観音堂蔵(長野県塩尻市)
使用されている石材は、4体とも異なります。大蔵寺(長野県駒ヶ根市)からお借りしている石仏は、「高遠の青石」と呼ばれる輝緑岩が使われています。そのほかは、高遠では見ることができない石で、現地で採れる石でつくられています(温泉寺は諏訪市、大泉寺は木曽町三岳、羽淵観音堂は塩尻市。いずれも長野県)。
貞治の石仏を見ると、仕上げの度合いは時代で違い、自分で仕上げる度合いは徐々に減り、弟子が多くの仕事をするようになったような印象を受けます。お顔のつくり方が徐々に変化し、だんだんとほっそりし、仏画に近いお顔になっていくように思います。
それは、貞治の一番弟子である渋谷藤兵衛が残した石仏を見るとわかります。貞治が晩年につくった石仏と、藤兵衛がつくった石仏のお顔はよく似ています。最後は「藤兵衛がある程度つくり、貞治が仕上げる」となっていったのではないかと想像できます。
温泉寺の佉羅陀山地蔵菩薩の塔身に刻まれた文字も、貞治の彫刻で間違いないと思います。ある程度の成形は弟子の仕事で、最終仕上げは棟梁の仕事というのが職人の世界の常識であったと思われます。
守屋貞治作、佉羅陀山地蔵菩薩
文政期(1818-1830)、温泉寺蔵(長野県諏訪市)。
塔身に刻まれた文字も貞治の彫刻で間違いないという
・守屋貞治の美意識
まず、守屋家の仏に対する篤い信仰が挙げられると思います。今回の企画展に合わせて、守屋家を調査させていただきましたが、本来お寺にあるようなものが先祖代々、大切に保管されていることがわかりました。
貞治以前からあった仏に対する信仰心が貞治にも受け継がれ、その信仰心が「仏を美しく仕上げる」という姿勢につながっていったのだと思います。
貞治が成長していく過程で、お寺の住職との交友関係も築かれていきました。諏訪の温泉寺の願王和尚や、その弟弟子で仏画を描くことで有名な実門和尚などとも交流を持ちました。
願王和尚は能書家としてもよく知られ、たいへん美しい字を書かれていました。願王和尚、実門和尚は審美眼の持ち主であり、貞治はその影響を受けて、自ら美しいものを追い求めて高めていったと考えられています。
企画展では、願王和尚の書や実門和尚の画(温泉寺蔵)も展示
技術面でも苦労はあったと思いますが、貞治が高遠の代表的な石工となった背景としては、先祖も石工で美しい石仏をつくっていたからだと思われます。駒ヶ根市(長野県)には、貞治の祖父である貞七がつくった石仏が残っています。その石仏はとても美しく、技術面でも優れており、貞治は石仏をつくるうえで、貞七の石仏を大いに参考にしたことでしょう。
守屋貞七作の石仏。関の地蔵尊(長野県飯島町)
高遠藩には『家筋軒別書上帳』というものがあり、代々の当主が書かれています。それを見ると守屋家は初代が権兵衛、二代が貞七、三代が孫兵衛、四代が定治(貞治)と続き、貼紙でその後も代々定治を名乗った人物が続いています。貞治は石工として三代目とされていますが、権兵衛が石工だったかどうかは定かではないためです。
『家筋軒別書上帳 中村』には守屋家の家筋が書かれている
(長藤中村地区蔵)
ちなみに守屋家の過去帳を見ると、貞治には娘が一人いたのですが、幼くして亡くなっています。その後に息子、娘は出てきませんので、『家筋軒別書上帳』にある貞治の後の定治は養子だと思われます。その養子も石工をしており、貞治が残した『旅日記』の続きには貞治が亡くなった後、地元・塩供村の近隣の人々から石仏の対価としていただいた代金などが記されています。
守屋貞治が書き残した『石佛菩薩細工』
(守谷太志氏寄託、伊那市立高遠町歴史博物館収蔵)
貞治が書いた『石佛菩薩細工』の文字は、とても美しいです。守屋家の過去帳にも貞治が書いたと思われる文字が残っており、筆づかいは巧みだったと思われます。石仏を彫る際は仏画のようなものの模写をしたと思いますが、絵を描くのも上手かったことでしょう。石仏の元絵は実門和尚が描いていた可能性があり、守屋家には、実門和尚が描いた絵を元にした石造物の拓本が掛け軸となって残されています。
貞治の家族は、安永(1772~81年)から天明(1781~89年)の時代にかけて次々と亡くなり不幸が続きましたが、一方で貞治の人脈は広がり、文化人などとの交流のなかで美しい石仏をつくっていったのだと思います。
残念ながら貞治が使った道具は一切残っていません。弟子の間で引き継がれていったのでしょう。どんな道具を使ったら細かい細工ができるのか、とても興味深いところです。
研磨された石は、泥岩や泥に近いようなもので磨かれたようです。磨きに関する記述が残されている古文書もあります。上・中・下などがあり、最上級だと「水研ぎ」といった言葉も書かれています。
貞治が石仏をつくっていた場所は、高遠では自分が生まれ育った塩供村の西側の山中にある高遠の青石が採れる場所と考えられ、そこで石を切り出し、石仏をつくっていたと思われます。高遠の青石は産出量が少ないので、塩供村以外では、高遠城のすぐ下の河原に露頭している青石を切り出していたという伝承もあります。
・守屋貞治の石仏を高く評価する史料も初公開!
本企画展に合わせて諏訪の温泉寺様から石仏をお借りしていますが、お寺に残る古文書も一緒にお借りしました。その古文書は貞治が生きていた時代のもので、そこには「高遠 石工定治」の名前がありました。文政6(1823)年、7年、10年から11年、12年から天保2(1831)年の『日用記録』に貞治の名前が記載されており、貞治は当時、温泉寺にとっても名前を残すべき石工だと認識されていたことが古文書からよくわかります。
文政10(1827)年の記録には、温泉寺のご住職が高島藩の重役の方々をお寺にお迎えした際に、守屋貞治と渋谷藤兵衛がつくった石仏が美しいのでわざわざ見てもらったことが記載されています。貞治の石仏が高く評価されていた記録です。
文政12(1829)年から天保2年の『日用記録』には、願王和尚が亡くなったときのことも書かれており、文政12年12月2日に願王和尚の供養のためのお地蔵様と、その下に付く塔身が貞治から届いたと書かれていました。現物を見ると、塔身には何も刻まれておらず、これまで建立年などはハッキリしませんでした。しかし、この記録によって納められた日まで判明しました。
「石工貞治」と書かれた『日用記録』
古文書を丁寧に読んでいくと、貞治が石仏を納めた先の名前が書かれていたりします。願王和尚とのつながりのなかで、貞治が各地に石仏を納めたという説をしっかりと裏付ける史料にもなります。こうした記録は、職人がつくったものの評価を著しく上げていきますので、とても大事な発見だったと思っています。とても貴重な史料であり、いずれも今回初公開です。
・守屋貞治は、江戸時代の職人像を大きく覆す人物
職人が文字を書くことはとても珍しいことですが、貞治は日記を書けるほどで、『石佛菩薩細工』の文字は楷書です。当時の庶民は崩し字しか学んでいなかったと思いますが、貞治は楷書で仏の名前まで書くことができました。過去帳に書かれた戒名も難しい字が多く、間違えることなく書いています
『旅日記』では和歌を詠み、狂歌も書かれています。ですから、貞治は江戸時代の職人像を大きく覆す人物でしょう。貞治が残した記録は、日々文字を書き続け、辞書でいろいろと調べたりして、文字を覚えていかなければ成し遂げることができなかったのではないでしょうか。
ただ、「貞治が特別」ということではなく、文字で記録を残す人は他にもいたことがわかってきています。村のなかで組頭や名主を務めるような方々のなかには、石工として出稼ぎに出る人物もいました。高遠石工の北原平造は村の名主を務めることもあり、「石切目付」といって石工を監視するような役もこなし、文章や図面を残しています。
武田信玄公岩窪御廟の玉垣の図面。10分の1の縮尺。
棟梁の北原平造の名前などが記載されている。
天保11(1840)年(伊那市立高遠町図書館)
棟梁になるような石工は、読み書きや製図など、自分が棟梁になっていくうえで必要な教養として身につけていた可能性があります。できあがった石造物といろいろな記録類から、石工の姿はかなりイメージが変わってきています。
高遠の地域で従来いわれていた石工像は、農家の次男や三男が家のために石工になって出稼ぎをするというものでした。文字の読み書きについては、一切注目されてきませんでしたが、貞治のような人物の登場により、石工の評価は大きく変ってきています。
・貞治の弟子、渋谷藤兵衛も紹介
貞治には弟子が5人ほどいたといわれていますが、常時一緒だったのは渋谷藤兵衛だったようです。貞治と藤兵衛の年齢差は20歳ほどです。弟子は1人以上、必ず付いていたようです。
渋谷藤兵衛は、下川手村(現伊那市美篶)で生まれました。貞治の弟子として活躍したことはわかっていますが、本人の記録がほとんど残っていません。貞治が亡くなった天保3(1832)年以降、藤兵衛が亡くなる嘉永6(1853)年まで、高遠の青石を使い、貞治の作風に似た石仏などを各所に残したと考えられていますが、多くは年代と作風から「藤兵衛がつくったであろう」という推定にとどまっています。
渋谷藤兵衛がつくったと推定される「鏡及び鏡台」。鏡に観音像を刻む。
天保9(1838)年、瑞光寺蔵(長野県辰野町)
藤兵衛の特徴は、貞治以上に細かい彫刻ができることです。高遠石工は線を刻むとき、風化しないように大きく深く彫りますが、藤兵衛は真逆で、細かい線で絵や文字を彫ることを得意としていたようです。その線はとても柔らかく、美しいです。
藤兵衛も優れた技術の持ち主ですので、古文書などの史料を丁寧に探して掘り下げていけば、貞治と同じように高い評価を得ることができる石工だと思います。
幕末になると、貞治と同じような技法を使う石工が現れますので、「貞治の石仏は、後の石工にも大きな影響を与えた」といえるでしょう。貞治と藤兵衛の石仏は、群を抜いていると多くの石工が見ていたと思います。
・高遠石工のルーツと石仏づくり
高遠石工のルーツは、長野県立歴史館の笹本正治特別館長のご指摘のとおり、武田家の時代(1545~1582年)に武田家の番匠で大工集団である池上家と一緒に武田家に付いてきた石工集団がルーツと考えられ、その石工たちの技術が後世の石工に大きく影響を与えた可能性があります。
左から延命地蔵菩薩、地持地蔵菩薩、聖観世音菩薩。
いずれも守屋貞治作。瑞光寺蔵(長野県辰野町)
職人集団が有力者に付いて、いろいろな場所へ行くことは中世からありました。ただ石工集団は当時、石仏をつくるのではなく、石垣や建物の礎石、土木関連の工事で、石工技術を発揮していたと思います。
石仏づくりは江戸時代に入ってからで、お墓を石でつくる動きと並行しています。木でつくったものは百年も経つと朽ちてしまいますが、建墓するに当たって、より長く先祖をお祀りするに相応しい素材として石を選ぶようになったのでしょう。大名家などが建てていた五輪塔や宝篋印塔などの石塔に注目し、庶民も自分たちのお墓を石でつくるようになっていったのだと思います。
【上】建福寺(長野県伊那市高遠町)にある西国三十三ヶ所観世音菩薩の一部【下左】光前寺(長野県駒ケ根市)にある光前寺大阿闍梨寂応塔(阿弥陀如来像)【下右】長松寺(長野県箕輪町)にある延命地蔵菩薩。いずれも守屋貞治作
そうしたなかで、子どもが早くして亡くなった場合に、お地蔵様をつくって墓地に建て、供養するという動きが出てきます。そこで石仏づくりの需要も生まれてきます。江戸時代の中期から後期になってくると飢饉で亡くなる人が増加し、供養のため、健康長寿の祈願のために、お寺などに石仏が建立されるようになります。
江戸時代の人々が「石でこんなこともできる」と気づき、また資金面でも墓石や石仏づくりの依頼が可能となり、急速にその需要が増えていったのだと考えられています。
・古文書から高遠石工を読み解く
石工になるためには、弟子入りをしなければなりませんが、高遠には弟子入りをするための願書が残されています。農家であり職人でもある人に、弟子入りをしています。
独り立ちできたら、藩から「鑑札」という石工の免許を出してもらい、はじめて石工として出稼ぎに行くことができます。ただし、どこへでも出稼ぎに行けるのではなく、出先で泊まることができる定宿の確保と、保証人(古文書では請人)も必要でした。
古文書には行き先も記されており、現地にある石仏に石工名が残っていれば、古文書との整合性を図ることができます。出稼ぎ先で古文書を残している家もあり、高遠石工の存在が明らかになる場合もあります。
「石切」という言葉は、高遠藩のなかで長く使われていた言葉です。ただ、石仏をつくるような職人に対しては、現地の人々は「石工」と呼び、文書のなかでも「石工」となっていったようです。「石切」というと石を切り出す作業をイメージしますので、石の細工が巧みになっていった高遠の職人たちは、やはり「石工」と呼ばれるようになっていったのでしょう。
「石数石切道具取調帳」(天保13〔1842〕年12月17日)のなかには、「石工の道具を譲った」という珍しい記録が記載されたものもあります。さし金、墨壷、石よき、のみ、手斧、矢、玄能など、当時の石工が何を持っていたのか把握できます。もちろん、石工によって持ち物は違ったと思いますが、一人の石工が持っていた道具類がわかり、貴重な記録だと思います。
またその記録には、笠石や台座石といった加工済みの石材や、家財道具なども記されていました。加工済みの石材は、見本にもなったはずです。
「石数石切道具取調帳」(伊那市立高遠町図書館)
「さしか祢(さし金)」「すみつほ(墨壷)」といった道具名が書かれている
・貞治の石仏、30体近くが行方不明
貞治が注目をされ始めたのは昭和30年代です。上伊那で「上伊那郷土研究会」が立ち上がり、『伊那路』という郷土史を出していました。その頃から貞治に関する記事が出始めました。
大々的に注目されるようになったのは、昭和44年に曾根駿吉郎さんが著した『貞治の石仏』(講談社)が発刊されてからです。それ以降、さまざまな方が貞治や高遠石工について調査するようになり、今日に至っています。そしてここ数年、貞治や高遠石工について注目度がグッと上がっています。
貞治や藤兵衛の石仏は、木彫に負けない美しさで、さらにいえば木彫では出せない美しさがあると思います。粗面と研磨面を使い分けているのですが、これが石のよさであり、木彫では表現が難しいと思います。木彫ではその代わりに着色をするなどしています。ですから、芸術的な面では石造物のほうが、深い味わいを持たせることができると思います。
貞治の『石佛菩薩細工』に記されている336体のうち、30体近くが行方不明です。長崎の禅暢和尚に石仏を2体つくったという記録もあります。その石仏が長崎でつくられたものか、高遠から送られたものか現物を見ないとわかりませんが、その2体が見つかると、高遠石工が一番西につくった石仏になる可能性が出てきます。高遠石工の活動エリアが広がりますので、大事な発見となります。
本企画展を機に、不明になっている貞治の石仏情報が寄せられることにも期待しています。今回初めて公開する記録類も多いですので、ぜひ、期間中に足を運んでください。皆様のお越しをお待ちしております。
守屋貞治作、佉羅陀山地蔵菩薩の一部。
足の指の爪まで丁寧に彫刻されている。温泉寺蔵(長野県諏訪市)
(聞き手=中江庸)