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石切場の歴史を地域遺産として活用する―奈良文化財研究所研究員・高田祐一氏に聞く

2021.03.13

高田祐一さん


  『月刊石材』2019年5月号「話題の新刊」コーナーで、日本遺跡学会監修『産業発展と石切場』(戎光祥出版)を紹介しました。同書の帯に「生産・流通の拡大、石のブランド化、職人・機械の技術革新など、豊富な写真・図版から石材産業の歴史を解明し、文化的活用への道を模索する!」とあるように「石材建築を支えた列島各地の石切場の実態」に迫った、とても興味深い内容です。
 同書の編者である奈良文化財研究所研究員の高田祐一氏に話を聞きました。

日本遺跡学会監修『産業発展と石切場』戎光祥出版。A5判、288頁、定価4,000円(税別)。高田氏が編者となり発刊

 

石切場の実態を明らかに

 まず日本遺跡学会について簡単に説明しましょう。遺跡とは何か、遺跡をどのように保存・活用すべきなのか――全国各地に存在する遺跡について、考古学や歴史学、造園学、建築学など分野を超えた人々の情報交換や研究、交流などを目的として、2003年2月に設立されました。

 その学会誌『遺跡学研究』の12から15号まで4回にわたって「石切場」の特集が組まれており、その各地の事例を地域ごとに再構成し、石切場の実態に迫るべく編集・制作したものが本書となります。全国より多数の方にご執筆いただきましたが、全員が日本遺跡学会の会員というわけではありません。

 本書が取り上げた「石切場(採石場及び採石遺構)」という研究テーマは、建築学や考古学、観光学などは対象外で、いわゆる文献史学の歴史学でもないため、学術的に確立されていないのが実情です。また日本の文化財行政としては、古墳などに比べて近代以降のものは優先度が低いため、やはり行政的な枠組みからも外れていました。

 しかし、現在操業中の採石場や採石遺構の実態を明らかにしたうえで、継承・保存していくことがより重要になるだろう、と考えました。前述のとおり、日本遺跡学会は、行政の関係者も含め、そうした幅広い分野の人たちが交流を図って活動していますので、学会誌で特集を組み、各地の専門家に原稿をお願いしました。

 私自身は、もともと大坂城の江戸時代に積まれた石垣の石切場を研究対象にしていましたが、その産出地を調べていくと江戸時代だけでなく、当然、近代の話なども出てきます。

 また調査の対象が江戸時代のものか判定するには、近代・現代のことがわからないと判断できません。それを調べていくうちに新たな事実や疑問などが出てきて、別のテーマに広がることもあります(笑)。

大坂城の石垣。奥に見えるのが大坂城


小豆島は一級の採石遺構

 香川県小豆島産「小豆島石」は、大坂城の石垣をはじめ、明治期の皇居造営事業にも大量に使用されましたが、その石切場の現地調査のため何十回と足を運んでいます。現地でのフィールドワークでは、当時の石割道具の復元など採石技術の検証作業で地元の髙尾石材株式会社の藤田精さんにもご協力いただいています。石工さんは古文書が読めないけれど、スキルがある。研究者はスキルがないけれど、(古文書から)昔のことを調べることができるので、お互いに協力し合っています。

 たとえば小豆島の東海岸にあり、筑前福岡藩の黒田家が採石したとされる岩谷石切場は、採石現場から船積みした海岸部まで当時の状況がそのまま残っています。近世の石切場を解明するフィールドとしては「一級の採石遺構」といえるでしょう。

小豆島の東海岸で筑前福岡藩黒田家が採石していた岩谷地区に点在する石切場の全体図。(奈良文化財研究所『大坂城石垣石丁場跡小豆島石丁場跡の海中残石分布調査』より。以下〔小豆島海中調査〕とあるものも同様とする)

小豆島東海岸の岩谷地区に点在する石切場の一つ、八人石丁場にある史跡「八人石」。大坂城の石を切り出す際に8人の石工が犠牲になったとされる石で、左の五輪塔はその供養のために建立された

天狗岩磯丁場に残された矢穴石
 

 江戸時代の古文書は割と多く、築城の石垣構築に関する文献なども残っています。そこには、いつ、どこで、誰がどれくらい石を採って運んだのか、そういうことが書かれていて、それを読んでから現地を訪ねると、当時のようすを想像しながら風景を眺めることができるので、とても楽しい気分になります(笑)。

 皇居造営事業については、宮内庁の宮内公文書館に、当時の石材の契約内容や発注・納期に関するやり取りなどが行政文書として全部残っているのです。その資料から判明した事実で面白かったのは、小豆島では「皇居に地場産の石が使われたのはとても名誉なことだ」と伝承されていますが、実際、調べてみると、納期遅れの契約違反で怒られていました。

 その理由が「嵐で船が転覆して石が落ちてしまった。だから石が出せない」という本当かどうかわからない内容で、その実地調査のために東京から担当官が派遣されていたことも明らかになりました。


かつて日本最大の天守閣(1657年焼失)があった、皇居内の天守台。巨大な石が目立つ。地上からの天守閣の高さは58メートルあったとされる

1842(天保13)年「『摂州御影石匠之図』(大坂城天守閣蔵)に見る船積みのようす。〔小豆島海中調査〕より(原図をスケッチして作成)