特別企画
お墓や石について、さまざまな声をお届けします。
環状列石とは何か?―岩手県立博物館 学芸第三課長 濱田 宏
西平内Ⅰ遺跡の内帯全景(東から)。出典:『西平内Ⅰ遺跡発掘調査報告書』。
写真右側の石列が環状列石の一部
環状列石とは何か?――死者を敬う気持ちは脈々と続いている
岩手県立博物館 学芸第三課長 濱田 宏
2021年3月23日~5月9日まで、岩手県立博物館でテーマ展「縄文いわての環状列石」が開催されました。そこで、同テーマ展を企画した岩手県立博物館の学芸第三課長である濱田宏さんに「環状列石とは何か?」について話を伺いました。
※『月刊石材』2021年5月号より転載
――環状列石について、いろいろと教えてください。
濱田宏課長(以下、濱田) 縄文時代後期の前葉と晩期(いまからおそよ3,000~4,000年前)につくられた、石を海や川から運んで来て環状に巡らせた施設のことです。
環(円)の直径は30メートル前後から大きいもので50メートルを超える環状列石も存在し、形状も円形に近いものから隅が丸い方形に近いものがあるなど、遺跡ごとに特徴があります。祭祀や儀礼にかかわるモニュメントであったと考えられ、お墓が環状列石に組み込まれていたり、その周辺にポツン、ポツンとある場合などもあります。
岩手県内では、これまで湯舟沢環状列石と松尾釜石環状列石の2つの遺跡が確認されていますが、このテーマ展を開催するきっかけになった、西平内Ⅰ遺跡(岩手県洋野町)もその仲間入りをするのではないか、と考えられます。
岩手県八幡平市のさくら公園内に復元されている
松尾釜石環状列石(直径約12m)。撮影:編集部
数回にわたる調査を経て、石列は25×28メートルほどの円形で、直線状に延びている箇所があることもわかりました。真ん中に中央帯と呼ばれる部分はなく、二重の環でもありませんでしたが、「環状列石の基本的な構造をとるのではないか」と考えられるようになりました。
その南東側には60ヵ所余りの配石墓があり、環状列石と配石墓の間には、モガリ(遺体の安置)を行なった場所だとか、倉庫といわれている掘立柱建物の跡もあり、秋田や青森の環状列石と比べて貧弱ではありますが、他の遺跡と構造上は同じ形態をとります。
縄文時代後期初頭から前葉にかけての遺跡で、環状列石が太平洋側でも見つかったということでも注目を集めています。
西平内Ⅰ遺跡の全体図。テーマ展にて編集部撮影
――環状列石は、なぜ北海道・北東北に多いのでしょうか?
濱田 環状列石は縄文時代後期前葉、いまから4,000年くらい前につくられています。ただ前身があって、縄文中期には石を組んだり、立石にしたりという事例はありますので、それが発展した結果、「大規模な環状列石につながるのであろう」ということになりますが、北海道・北東北に多い理由は謎です。
――国内で一番古い環状列石はどこになるのでしょうか?
濱田 山梨や長野にある遺跡で、その周辺から北上したといわれています。
――環状列石が祭祀施設といった場合、何をおまつりしていたのでしょうか?
濱田 単純に考えると、生死に関係することだと思います。地面に穴が掘られて、そこから人骨が出土すれば、それはお墓であると確実にいえると思いますが、人骨が出土するケースは多くはありません。ただ、人骨が出土する事例もありますので、祭祀といっても、「葬送に関わることだろう」と思います。それが大規模だった場合、その場所が集合墓地であり、もしくはいまでいう葬祭センター的な使われ方をしたのではないか、という見方です。
モガリが何を意味していたかわかりませんが、仮に掘立柱建物が一時的な遺体の安置場所であるならば、かなり手厚いというか、死者を敬う気持ちが多分にあったはずです。墓地のそばに掘立柱建物があるということは、家族だけではなくて、その集落に暮らす人々のためでもあったのではないか、とイメージしています。
ですから現在、葬送に対する意識が希薄になっているといっても、死者を敬う気持ちは脈々と続いているわけですから、お墓がなくなることはないでしょう。
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