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縄文人の死生観とは?―青森県企画政策部世界文化遺産登録推進室 世界文化遺産登録専門監 岡田康博

2021.12.12

●「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界遺産登録記念・特別インタビュー/『月刊石材』2021年8月号掲載

縄文人の死生観とは?

青森県企画政策部世界文化遺産登録推進室 世界文化遺産登録専門監 岡田康博


三内丸山遺跡・環状配石墓
出典:JOMON ARCHIVES(青森県教育委員会撮影)

 

縄文人も先祖観を持っていた

――縄文人の死生観について教えてください。

岡田康博専門監(以下、岡田) 遺跡から判明することは、そこに残された明確な証拠からだけです。ですから、縄文の人たちの死生観を考える場合、確実にいえることはまず、「墓がある」という事実です。

 墓がある以上、縄文の人たちがそれまで生きていた自分の最愛の人など、つまり死者を弔っていたということは当然のことだと思います。それは一定の原理原則のようなものだといえます。ただ、「思想の問題は、考古学では一番不得手」ということを前提に、今日はお話ししたいと思います。

 まず、墓地をつくるということは、定住と密接な関係があります。ある意味、土地への執着、土地への強い思いを表していると思います。ですから、その土地で生まれて一生を終えることについて、縄文の人たちは非常に大きな意味付けをしていたと考えられます。

 北海道・北東北ですと、大規模な墓地は、すべての遺跡から見つかっているわけではなく、特定の集落に集中してつくられる傾向にあります。そういった集落を「拠点集落」と呼んでいますが、地域の拠点となるところに大規模な墓地はつくられています。

 また個々の墓を見ると、乳幼児と大人では、その構造に大きな違いがあります。乳幼児は普段使っている土器を棺として、乳幼児だけの墓地に埋葬しています。その墓地は家の近くにありますので、我が子に対する強い愛情の表れと同時に、再生の願望が強かったのではないかと思われます。「早く胎内に戻ってほしい」「また宿ってほしい」といったことを願い、縄文の母親たちは、「墓のうえを歩いていた可能性もある」ともいわれています。

 一方で大人の墓地は、乳幼児の墓地とは別の場所にありますが、忌み嫌うものではなくて、いま生きている人たちを守り支える、心の支えといった位置付けだった可能性があります。よって、大人と乳幼児では、死生観の違いを考える必要があると思っています。

 いずれにしても、墓地はいま生きている人たちが死者とお別れをする大事な空間でありますので、それが日常生活のなかに明確に位置付けられていたといえると思います。

――縄文時代には、定期的な墓参はあったのでしょうか?

岡田 縄文の人たちにとって死は一瞬ではなくて、弔ったあとも何らかのかたちで死者に関わっていたと考えられます。

 その一つの理由は、墓の周りを石で囲むという環状配石墓では、遺体を墓に埋葬したときと、石でその周りを囲んだときでは時間差があります。つまり、埋葬後に現代でいう追善供養のようなことをしていて、それはすごく大事なことだったと思われます。

 人が亡くなったあとも死者との関わりがあって、それはいま生きている人の精神的な支えであると同時に、集団としての結束を固めるときに、先祖を共有する行為が社会的にも非常に意味があったと考えられます。

――そうすると、「縄文人も先祖観を持っていた」ということでしょうか?

岡田 そうだと思います。

「先祖が同じ」ということについて、両親なのか、さらにさかのぼって、祖霊といわれるような精神的なものなのか、見解は分かれるところですが、いずれにせよ、親愛なる死者が「同胞である」という意識をどのようにして保っていくか、ということは縄文の人たちにとって大事なことだったと思います。

――縄文時代は一万年以上続きましたが、その間に死生観の変化はあったのでしょうか?

岡田 私はあったと思います。

 縄文時代の晩期になると、集落とは離れた場所に集団墓地がつくられています。そして、その場所は集落を見下ろす小高い丘のうえだとか、逆にいうと集落から見上げる場所だとかを選んでいますので、たぶん、「死者は亡くなると山に帰る」という意識になったのだと思います。


縄文の人たちにとって、死は一瞬の出来事ではない

――「追善供養らしき行為で、埋葬地を石で囲んで」という話が先ほどありました。なぜ、石だったのでしょうか?

岡田 石は腐ることはないので、世代を超えてその場所をずっと伝えられます。ですから、石を使ったことには非常に大きな意味があると思います。

 墓地をつくって石を使った人たちは、いずれ亡くなるわけですが、自分が亡くなっても、その墓地が精神的に意味のある空間として引き継がれていかなければなりません。ですから、いつの時代も「その場所が墓地である」と、わからないとダメであり、その場所を示す石は大事な役割を果たしていたと考えています。

――大湯の環状列石では、石がたくさん使われています。墓地と考えてよいのでしょうか?

岡田 基本的には集団墓地だと思います。ただ、石は一度に持ち込まれたのではなく、時間をかけて少しずつ持ち込まれています。

 大湯以外の遺跡でもいえますが、環状に並べられた石を見ると、この場所ではAという場所から運んだ石を使い、別の場所ではBという場所から運んだ石を使うというケースがあります。 一種類の石だけでつくられた場所が何ヵ所かあり、時間をかけて環状列石はつくられたと考えられます。こうしたことから考えても、縄文の人たちにとって、「死は一瞬の出来事ではない」ということでしょう。

大湯環状列石・万座環状列
出典:JOMON ARCHIVES


――一つの環状列石をつくるまでには、どのくらいの時間を要したのでしょうか?

岡田 大湯の環状列石の場合、200年です。他の遺跡を見ても、少なくとも世代を超えてつくられていることは間違いないですね。

 縄文人の一生は30年、40年といわれていますので、世代を超えていくとなると、大湯であれば数世代単位で継続していたということになるのだと思います。

――縄文人は、家族意識を持っていたのでしょうか?

岡田 私は「縄文時代は家族の時代だった」と思っています。

 竪穴住居を見ていくと、大きさは大体同じです。縄文時代は、生活するときの一つの単位が段々と固まっていく過程にあると思いますので、その際に「家族が居住のときの一つの単位」ということは疑う余地はないと思います。

大船遺跡・復元建物。代表的な竪穴建物跡を復元したようす
出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会撮影)


――一家族は何人くらいだったのでしょうか?

岡田 それがわかると苦労はしませんが(笑)、基本的には夫婦と子どもでしょう。平均寿命から考えると、三世代同居というのは、かなり珍しいケースだと思います。

 大家族の場合には、おじさんやおばさん、甥や姪と同居していた形跡も見られますので、基本的には家族を中心としながらも、ある程度の範囲の血縁関係が居住のときの一つの単位だと考えられます。

――お墓から見つかった土器や石器などの副葬品には、どのような意味があるのでしょうか?

岡田 副葬品から読み取れる意味は二つあります。一つは埋葬されている人の性差を表しています。たとえば、墓のなかに狩りの道具が入っていれば男性であり、調理の道具が入っていれば女性です。それぞれの道具が一緒に入っていたというケースはないので、基本的には性差を示していると考えられます。

 もう一つは、シャーマンといわれるような祭事に関わる特殊な人の場合、特別なものが入る例があります。たとえば、石を加工した「石棒」と呼ばれるものであったり、あるいは精巧な彫刻を施した装身具であったりといったことはあります。