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縄文人の死生観とは?―青森県企画政策部世界文化遺産登録推進室 世界文化遺産登録専門監 岡田康博

2021.12.12

縄文人は神を意識していた

――縄文人は神を意識していたのでしょうか?

岡田 私は意識していたと思っています。

 これまで縄文人は、「『万物に精霊が宿る』といったことは意識していたであろう」と考えられていたと思いますが、縄文の人たちはもう少し具体的に神のイメージを持っていたと私は思っています。

 それは、たとえば土偶といわれる祭祀儀礼に関係する道具があり、それ以外にもさまざまな祭祀儀礼の道具が発掘されていますので、ある程度の役割分担のようなことが祭祀道具から見てとれます。ひと言に「土偶」といっても、大きさやかたちはさまざまで、目的によって使い分けされているので、当然ながら祭祀儀礼の対象となる神も、その都度違っていたのではないかと思っています。

 自然の恵みを祈願する神、自分たちが世代を超えて生きていくことの祈りや感謝を伝える神など、広い意味では同じ神かもしれませんが、祭祀儀礼の対象としては、生活の場面で違いがあってもいいのではないかと思います。

――土偶は祭祀儀礼の道具として考えてよいのでしょうか?

岡田 土偶がどんな場所から見つかるのかというと、墓から出てくる場合もありますが、非常に少ないです。土偶が圧倒的に多く見つかるのは、最近では「盛土遺構」と呼んでいる場所で、長い時間、さまざまな祭祀儀礼が行なわれた空間です。その空間はいろいろな遺跡にあり、土偶はそこから見つかりますので、祭祀儀礼の道具であることは疑う余地はないでしょう。

亀ヶ岡石器時代遺跡・大型遮光器土偶(レプリカ)
原品は東京国立博物館所蔵。
沢根地区低湿地で1887年に出土したもの。
出典:JOMON ARCHIVES(つがる市教育委員会所蔵)


 また、たとえば装身具の類で、耳飾りやペンダントが集中して見つかる場所があります。何かしらの儀礼に使う道具と、そのときに身につけていたものを、役目が終わると一ヵ所に埋めたといったことも考えられます。

 いまは、縄文人の精神世界が複雑であったことが見えるようになってきました。

――縄文遺跡から発掘された耳飾りの一部や玉(ぎょく)などの一部で、大陸との関係が指摘されているものもあるようです。縄文時代に大陸との接点はあったのでしょうか?

岡田 私は、何らかのかたちで交流があったと思っています。

 玦状(けつじょう)耳飾りと呼ばれている耳飾りの形態は、大陸と共通点があります。もちろん、「偶然の空似」ということは充分に考えられます。

 耳飾り以外にも、石でつくった装身具のなかには、大陸と共通するものがあります。また単品ではなく、祭祀儀礼に使われているものがセットとして、ある程度の共通点がありますので、何らかのかたちで交流はあったであろうと考えています。

内丸山遺跡・装身具。
中列左端と2番目が玦状(けつじょう)耳飾り。
出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵、田中義道撮影)


――大陸との交流があったとすれば、縄文時代でもいつ頃のことでしょうか?


岡田 いろいろな状況を確認しなければなりませんが、縄文時代の後期以降、日本の縄文の世界が大きく変化していく過程のなかで、大陸と共通する情報が見られます。でも、それ以前から交流はあったかもしれません。

 日本列島と大陸の間に日本海があり、自然でも大きな波が来たり、小さな波が来たりします。実証することは難しいですが、たまたま日本側で大陸からの情報の波を受け止められたときに、共通する文化的事象が出てくるのでは、と思ったりしています。

――縄文時代の後期以降、日本の縄文の世界は、なぜ大きく変化していくのでしょうか?

岡田 考えられる一つの要素は寒冷化で、いまから4,300年くらい前に起きたとされています。それに伴って食料の減少など、不安定な食料事情が考えられ、その際に集落の分散化や小型化など、いろいろな現象が起きています。

 社会の揺らぎが見えてくる時期でもあり、そういったことも関係するのかもしれません。また縄文後期は、ストーンサークルが登場する時期でもあります。

――その時期には、亡くなる方が増えたのでしょうか?

岡田 難しいところですが、集落の数は減っておらず、人口が急激に減少したということは見てとれません。自然環境が変化して厳しい状況にあったとしても、うまく克服して大きな人口減少にはならなかったと思われます。

――現在はコロナ禍にありますが、縄文時代には、疫病などもあったのでしょうか?

岡田 証拠としては捕まえにくいと思います。遺跡から遺体が確認されるケースは稀であり、埋葬した痕跡しか見られませんが、発想のなかには、そうしたことも留めておく必要があるのかもしれませんね。


縄文時代に戦争はなかった

――よく聞く話ですが、やはり縄文時代は戦争がなかったのでしょうか?

岡田 縄文遺跡から武器は見つかっていませんので、戦争はなかったはずです。「狩りの道具が武器になるだろう」といったこともいわれますが、弓矢の先に付ける矢じりが大型化して、武器に変化するのは弥生時代です。縄文時代にはそういったことが一切見られませんので、矢じりは武器ではないと考えられます。

垣ノ島遺跡・墓に副葬された足形付土版と石鏃や石槍、
つまみ付きナイフ(石匙)
出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会所蔵)


 また、集落の周りをたとえば濠で囲む、あるいは土手を築くといった防御の施設も見つかっていません。稀に溝で囲んだ集落が見つかりますが、祭祀的な意味と考えられています。ですから、実用的な防御施設は縄文時代にはなく、平和で協調的な社会だったといえると思います。

――弥生時代になると、なぜ戦争が起こってくるのでしょうか?

岡田 これまでは、「稲作が伝わってきて、生産力の違いによる食料を含めた富の収奪が戦争の起源」という話がありました。しかし、弥生文化の担い手であった渡来してきた人たちが持ち込んだ文化的な要素の可能性も否定できないと思います。

 日本全国の縄文遺跡から見つかった人骨を詳細に分析した人たちがいて、その結果を見ると、「暴力や何らかの被害を受けて亡くなった人は、世界的に見ても非常に少ない」とあります。そういった意味では、戦争もある意味では文化的行為であって、だからこそ、防ぐことができると思います。

 縄文時代を見ると、「戦争は必然でない」と考えられるので、現代を生きていくうえで一つの明るいことだと感じています。

――さかのぼって、旧石器時代から縄文時代へ移行した理由も、気候変動などが考えられるのでしょうか?

岡田 気候の変化は、やはり大きな要素です。縄文時代以前の旧石器時代は氷河の時代であり、縄文時代は地球規模で温暖化が起きてきます。それによって環境が大きく変化し、森林環境が針葉樹から落葉樹へ代わり、海水面が上昇することによって日本海ができて、暖流が北上し、寒流が南下します。また入り江や内湾が発達し、現在とよく似た環境ができ上がりました。

環境の変化によって、暮らしやすさという点では、縄文の人たちはよい環境を手に入れることができました。ただ、環境が整っただけではダメですので、それに対応するような技術や技術を支える生き方、哲学のようなものも合わせて発達してきた、ということも背景として考えなければならないと思います。

――旧石器時代の人や縄文人は、どこから来たのでしょうか?

岡田 難しいですね(笑)。いまいえることは、縄文文化の担い手の縄文の人たちは、基本的には縄文時代の初めには、日本列島に居住していたということです。また、人骨の分析などを見ていくと、形式的には均一なので、「日本列島のなかでの南北交流は、かなり古い時代から頻繁にあったのではないか」という気がします。

そのあたりは、考古学のロマンということでしょうね(笑)。

伊勢堂岱遺跡・環状列石。
上が北東。環状列石A(右上)、環状列石B(左上)、環状列石C(下)。
出典:JOMON ARCHIVES


人類が未来に向けて生きていくうえで、縄文社会、縄文遺跡はいろいろな示唆を与えてくれる

――「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に申請し、登録されました。「縄文時代の北海道・北東北は、暮らしやすかった」ということでしょうか?

岡田 生活という点からすると、非常に恵まれた自然環境にあったと思います。その環境が基本的には食料の安定供給というか、安定した食料の確保につながるという意味では、紛れもなく「暮らしやすかった」といえると思います。

――今回の17遺跡は、どのような基準で選ばれたのでしょうか?

岡田 縄文時代の初めから終わりまで、いろいろと変遷がありますので、その変遷を連続して切れ目なく説明できるような構成になっています。また環境の変化がありますので、その変化にどう適応してきたのかという意味で、17遺跡を六つのステージに分けて考えました。その変遷を定住というキーワードで、特に移り変わりを具体的に示しました。

――今回の世界遺産の登録までに何年かかったのでしょうか?

岡田 「三内丸山遺跡を世界遺産にしたい」と意思表示をしてから16年です。

三内丸山遺跡・全景。
左は大型掘立柱建物(復元)、右は大型竪穴建物(復元)。
出典:JOMON ARCHIVES


――すごいですね。いまのお気持ちをお聞かせください。


岡田 息の長い取り組みにはなりましたが、解決しなければならない課題が山ほどありました。一つは広域で取り組んでいますので、それぞれの遺跡において、いろいろな理解や解釈がありました。それを世界に向けて説明するためには、共通理解に立つ必要がありましたので、その環境づくりに時間がかかりました。

 それから世界遺産は保全が目的ですので、「それぞれの遺跡がしっかりとした保全の体制をつくる」ということでも時間がかかりました。さらには縄文というと、価値がわかりづらい部分がありますので、「その価値をどのようにわかりやすく伝えるか」といったことについても、時間をかけて検討しなければなりませんでした。

 もちろん時間をかけた分、結果的に世界のなかで評価をされることになりましたので、よかったと思っています。

――現代人が縄文時代や縄文遺跡から学べることはありますか?

岡田 縄文時代の生活は、自然とともに生きてきた人たちの暮らしであることは間違いありません。遺跡のなかでは、断片的ではありますが、「縄文の人たちが自然とどう向き合っていたのか」を知ることができますので、まずはその事実をしっかりと知る必要があると思います。それをいまの時代に実践することはできませんが、未来を考えるヒントやきっかけとして、縄文遺跡は充分に役割を果たしていけると思います。

 いま、SDBs(持続可能な開発目標)がよく話題になりますが、縄文の生活はそれと重なる部分があります。人類が未来に向けて生きていくうえで、縄文遺跡はいろいろな示唆を与えてくれると思いますので、実際に遺跡に足を運んでいただいて、その価値や世界観を感じていただければと思います。

御所野遺跡・クリとクルミ
出典:JOMON ARCHIVES(一戸町教育委員会所蔵)


――現在、全国的にお墓を片付ける仕事が増えています。縄文時代のお墓や埋葬を見て、そのような状況をどのように感じますか? 最後にお聞かせください。

岡田 お墓は死者のものであると思いますが、一方では、いま生きている人たちのものでもあると思います。お墓は死者が生きていた証であると同時に、自分たちが生きていくうえでの精神的な支えであると思います。

 かたちはいろいろとあるにせよ、墓地が持っている意味は、時代を超えても変わらないものがあると思います。

――本日はお忙しいところ、誠にありがとうございました。


出典:『月刊石材』2021年8月号
聞き手:石文社・中江庸

祝!「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界遺産登録!!もご覧ください。
https://stone-c.net/log/5491

◎北海道・北東北の縄文遺跡群
https://jomon-japan.jp/