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板碑とは何か?~石巻の板碑から考える|石巻市博物館 学芸員・主任主事 泉田邦彦

2023.09.15

石巻市三輪田にある宮城県在銘最古となる文応元(1260)年銘の板碑。
上部は欠落。高さ約88㎝、幅約28㎝(写真提供:石巻市博物館)


●インタビュー/『月刊石材』2023年4月号掲載(一部再編集)


板碑とは何か? ~石巻の板碑から考える
石巻市博物館 学芸員・主任主事 泉田邦彦

 

泉田邦彦(いずみた・くにひこ)さん。石巻市教育委員会。
石巻市博物館学芸係、学芸員(歴史)・主任主事。博士(文学)

 

板碑とは何か?

 板碑とは、鎌倉時代から戦国時代にかけて立てられた石製の供養塔です。在銘最古の板碑は埼玉県熊谷市にある阿弥陀三尊像を刻んだ板碑で、紀年銘は嘉禄3(1227)年です。

 石巻市三輪田には、宮城県在銘最古となる文応元(1260)年銘の板碑があります。有紀年銘の板碑の初見は、全国的に文永年間(1264~1275年)が多いですが、石巻にあるこの板碑はそれに先立つものです。

 板碑は全国で約70,000基が確認されており、宮城県には7,000基以上が存在します。そのうち石巻市には、2,000基を超す板碑があります。東北のなかではかなり多く、板碑残存数が県内で2番目に多い仙台市は、石巻市よりも広域ですが、それでも573基です。

 石巻の板碑は数が多いだけではなく、造立年代が長いことも特徴です。仙台市では1400年代半ば頃に造立がみられなくなるのに対し、石巻市域では文応元(1260)年から1600年代初頭まで板碑が立てられ続けました。

 かつて板碑の発祥は、関東から始まり、関東武士の地方下向にともない伝播したともいわれていました。しかし、平安時代後期にはすでに板碑型の木製塔婆が全国的にみられており、その見直しが進められています。

板碑を立てた理由は?


 板碑の銘文中にしばしば「石塔婆」や「卒塔婆」と刻まれているように、板碑は石の塔婆です。塔婆を立てる目的として、まずは死者の追善供養が挙げられます。初七日から三十三回忌まで、さまざまな忌日に合わせて板碑が立てられました。彼岸に合わせて立てられた板碑も散見されます。

 もう1つは、自身の生前に死後の冥福を祈る、逆修供養のために板碑が立てられました。

 板碑を立てることは、仏像の建立や写経・法会と同様に作善行為となります。現世で功徳を積んで死後に極楽往生するという思想のもと、数多くの人が一緒になって板碑を立てる「結衆板碑」というケースもあります。

 石巻市三輪田の雷神社では1人が結縁し、十三仏信仰のもとで板碑を立てたり、同市南境の妙見八幡社では120人が結衆して板碑を立てたりしています。これらは逆修供養を目的とした板碑で、極楽往生を祈念したものと捉えられます。

 忌日に関していえば、五七日の三十五日供養、百か日、そして一周忌、三回忌、三十三回忌が比較的目につきます。四十九日はそれほど多くはない印象です。



結衆板碑の拓本。種子の下に、たくさんの名前が刻まれている
(写真提供:石巻市博物館)


石巻の板碑の特徴は?


 石巻の板碑の特徴の1つに、種子のバリエーションの豊かさが挙げられます。埼玉の武蔵型板碑の場合、種子の九割以上が「キリーク」「サ」「サク」の阿弥陀三尊です。それに対し、石巻の板碑は、種子が定型化されておらず、いろんな種子がみられます。

 珍しい種子では「ア」「ビ」「ラ」「ウーン」「ケン」を左右対称にして五輪塔型にしたものもあります。この五輪塔型は「双円性海塔」と呼ばれ、空海が著した『法華経開題』にある「双円性海」に由来するとても難しい教理です。このかたちを刻んだ板碑は全国に10例しか確認されていません。そのうち仙台に2例、石巻に6例あります。

 興国4(1343)年銘双円性海塔板碑の拓本。双円性海塔を二重線で区画し、天蓋・瓔珞・蓮台といった荘厳具で豪華に飾っている。高さ約247センチメートル、幅約45センチメートル(写真提供:石巻市博物館)


 石巻の6例のうち1例は、企画展「石巻の板碑―調査の記録をたどる」開催期間中(2023年1月28日から3月26日まで。宮城県石巻市・石巻市博物館企画展示室で開催)に市民から情報提供があり、新たに見つかったものです。全国的にごく限られた数しか確認されていない双円性海塔板碑ですが、驚くべきことにその半数以上が石巻市域にまとまって存在するのです。

「双円性海」は、金剛界と胎蔵界が一つであるという「金胎不二」の思想や、天台密教谷流下の理智冥合思想、禅密一致思想など、特定の宗派で単純に割り切れないような、複雑でいろいろな要素を踏まえたうえで成り立っているようです。修行を経て、その思想を理解した僧侶でないと扱えないわけですが、なぜこのような種子が刻まれた板碑が石巻に多いのか、その理由は不明です。

 石巻で「双円性海塔」を刻んだ板碑が立てられたのは、14世紀前半から15世紀前半の約100年間、中世の行政区分でいえば牡鹿郡・桃生郡・深谷保の3つの領域にみられ、それぞれを支配していた領主権力は葛西氏・山内首藤氏・長江氏です。

 石巻市は中世の古文書が少ない地域で、寺院関係のものはほとんど見出されておらず、詳しい背景はよくわかりません。双円性海塔板碑が立てられた事実から、特定の時期にそれぞれの領主権力が自身の拠点寺院に有力な僧を招聘していたのであろう、と考えられています。

 石に種子を刻む、板碑を造立するという行為には、当然ながら宗教的な背景を想定すべきです。種子は誰もが簡単に使えるものではなく、修行や儀礼などを経て初めて扱えるものです。

 石巻市尾崎にある海蔵庵板碑群の銘文や網地島長渡浜から出土した経筒の銘文、あるいは真野の長谷寺にある仏像の墨書銘などを読めば、鎌倉や高野山、京都で修行した僧侶が石巻に来ていたことは明らかです。当該地域の板碑文化は、中央との関わりを持ちつつ、教理に基づき自分なりの解釈で主導していった背景が想定されるのではないでしょうか。

石巻に板碑が多い理由は?


 石巻に板碑が多い明確な理由はわかりませんが、1つは石材産地という点が挙げられます。井内石(石巻市稲井地区産)と雄勝石(玄昌石。同市雄勝地区産)が主に使われ、近年の研究により、登米石(宮城県登米市産)が使用されていることもわかってきました。数としては、井内石板碑が圧倒的に多く、雄勝石板碑は石巻の雄勝地域だけで、極小的にみられるものです。

 ただ、霊場である雄島(宮城県松島町)周辺の海底から見つかった小型の板碑は、井内石製とともに雄勝石製も確認されており、これら石巻産の石材が商品として流通していたことは確実です。一方、この海底から見つかった井内石板碑は、石巻のものに比べて、より薄く小さく成形されている点が注目されます。石巻の板碑に比べて、種子や銘文の彫りも丁寧な印象ですから、霊場である松島には石の加工を職能とする石工集団がいたことを推測させます。

霊場である雄島(宮城県松島町)には、たくさんの板碑が立つ


 加工の問題でいえば、石巻市福地の千照寺出土の板碑から、碑面に縦横の割付線を刻んだ痕跡も見つかっています。種子や銘文を書いたのは僧侶で、割付作業は石工がしたようです。種子の彫りに目を向ければ、書き順や文字の重なりを考慮した彫り方をしている様もうかがえます。

 また、石巻に板碑が多い背景には、それを受容する文化の存在があったはずです。文化を成り立たせる宗教、民衆の生活基盤、社会のあり方が見えてくると、石巻の板碑の多さにも説明がつくかもしれません。

種子に金箔を貼った板碑も登場


 典型的な板碑は、中央上部に種子を刻み、その下に銘文を刻みますが、石巻をはじめ北上川中下流域では、15世紀半ば頃から小型化し、種子だけを刻むようになります。

 また、当該期の当該地域の特徴として、種子に金箔を貼る金装板碑が出現する点が挙げられます。石巻市では9遺跡において、1300年代末期から1400年代半ばにかけて、種子に金箔を貼った板碑が一定数確認されています。県内の事例を見ると、1300年代前半から金箔を貼った事例はありますので、必ずしも室町時代に入ってからということではなく、板碑を金装する文化は普遍的にみられるものと捉えるべきなのでしょう。

 その中でも注目されるのは、石巻市十三浜の長塩谷板碑群です。ここは、旧北上町時代に土中から99基の板碑が発見され、出土時にはそのうち44基、4割以上の板碑の種子に金箔が残存していました。板碑の種子や銘文に金箔を貼ったものだけでなく、銘文を彫らずに金箔で書いたものが2基確認されていますから、種子のみを刻んだ板碑であっても、本来は金箔や墨書によって銘文を書いていた可能性が想起されます。

石巻市十三浜の長塩谷板碑群にある板碑の1基。
種子に金箔が貼られている(写真提供:石巻市博物館)


 実際、一関市藤沢町の文明3(1471)年銘の板碑は、碑面に種子も銘文も刻まず、種子も銘文も金箔押しで金装したものがあります。そうした事例を見ると、種子だけが刻まれた板碑は、消えてしまっただけで本来は墨書や金箔による銘文が存在していた可能性を考えるべきなのでしょう。

誰を供養したのか?


 供養の対象はさまざまですが、いくつか例を挙げれば、子が親を、寺院の弟子が師を追善供養したものがみられます。例えば、石巻市狐崎浜に立つ双式板碑は、一つの碑面を二分割し、右側に母親、左側に父親の名前を刻んでいます。これは同日に亡くなったわけではなく、亡くなった母親の追善と父親の逆修のため、その子どもが立てた事例です。逆に、亡くなった娘の極楽往生を願って両親が立てた事例もあります。

 石巻市東福田の題目板碑には、建武元(1334)年3月15日に「死去」した平重命・同子息義継の菩提を弔った板碑があり、おそらく合戦で同日に亡くなった父子の供養をしたものと思われます。

 板碑を立てた層を考えると、鎌倉時代の板碑の出現期は、領主権力の支配領域ごとに特徴がみられますので、武士層と結びつきながら造立されていたように思われます。板碑を立てるには石材を購入せねばならず、石を加工する職人の人件費、金箔を貼る場合はその代金などが想定され、ある程度、お金がなければ難しかったのではないでしょうか。

 板碑からうかがえる宗派には、南無阿弥陀仏の六字名号を刻んだ時宗、南無妙法蓮華経の題目を刻む日蓮宗があります。光明真言の偈を持つのは真言宗と考えられますが、当時の宗教のあり方を踏まえれば、特定の宗派で線引きすることは難しいようにも思います。

南無妙法蓮華経の題目を刻む板碑。四十九日の文字も刻まれている
(写真提供:石巻市博物館)

 

板碑に納骨は? お参りは?


 宮城県内では、岩沼市の中ノ原遺跡の板碑の下から、骨蔵器が出土しています。石巻市では、中世~近世の墓域である小泊遺跡の板碑の下から埋納された焼石が見つかっており、本来は火葬骨を埋納したであろうと考えられています。

 ただし、板碑には必ずしも納骨を伴うわけではありません。板碑は供養塔ですので、現在のお墓とは機能が違うようです。

 雄島では12世紀後半から火葬骨が埋葬されており、多数の火葬骨や遺髪を納めた「骨塔」と呼ばれる石塔もあります。中世社会においてどれだけ一般化していたのかはわかりませんが、霊場に火葬骨が埋納された典型的な事例といえるでしょう。

 板碑の立つ場所は霊場、勝地です。例えば、雄島であったり、石巻の長面湾を見下ろす海蔵庵板碑群であったり、比較的小高い場所から海などを見下ろすことができるような、眺めのよい勝地に板碑が立てられている事例が多いと思います。

 結衆板碑の場合は、街道の辻や参道の入り口など、人の往来があり、人の目につきやすい場所に立てられている場合が多いです。自分たちが結衆して立てたことを、人々に知ってもらうことも意識していたと思われます。

 板碑を立てた後、どのように人々が板碑を扱っていたのか、お参りしていたのか否か、当時の状況がわかる絵図や経典は見出されておらず、実態はよくわかりません。しかし、同じ人を同じ場所で何度も追善供養した板碑がありますので、忌日になると板碑を立ててお参りし、その都度、供養をしていた可能性も想定できるでしょうか。

改刻、再利用された板碑も


 石巻には、鎌倉権五郎景政(平安時代後期に活躍した桓武平氏の流れをくむ武将)の子孫である長江氏が治めていた深谷保という地があります。その地にある高福寺には「鎌倉権五郎五代後葉」、つまり景政の5代目の子孫が立てた板碑があります。

 刻まれた銘文は、武家に生まれた被供養者を讃える内容で、末尾に「不朽の文に留めて、未来の修覧に伝えん」と記されています。朽ちることのない石材に文章を刻むことによって、鎌倉権五郎景政以来の名門である自身の家の功績を未来に伝えていこうとしたようです。

 石に文字を刻むということは、石自体が消失しないかぎり、それが永遠に残り続けるという利点があります。これは板碑も同様なわけですが、石巻の板碑のなかには、碑面を削って種子や銘文を刻み直す改刻の事例がみられます。つまり、石材を再利用しているのです。

 数は少ないですが、改刻された板碑のなかには特定の人物を追善供養した可能性があるものも確認されており、忌日に合わせて種子や銘文を刻み直していたのかもしれません。

改刻された板碑の拓本(左)とトレース。種子を界線で囲み、碑面全体に古い文字の痕跡が認められる
(写真提供:石巻市博物館)

板碑の終焉


 板碑を立てる作善行為は、価値観の変容にともない終焉を迎えます。江戸時代には特定個人の墓碑へと切り替わっていきました。1640年代の早い段階で、板碑がお墓として再利用された事例が確認できるほか、参道の敷石にしたり、小川の架け橋にしたり、板碑そのものの機能を失っていきます。

 価値観が変わった理由はわかりませんが、戦乱の世が収まったことが影響しているのかもしれませんし、江戸時代になって本末寺院制度が確立し、宗門改帳なども現れるなど、宗教の整備がなされたことも影響しているのかもしれません。検地が行なわれ、土地の所有や耕作人が把握され、一方では檀家制度も確立していき、お寺の裏に奥之院のような場所がつくられ、そこに檀家のお墓が固定化されていきます。そうした状況下で江戸時代のお墓が成立していくのだと思いますが、次第に板碑文化が意味をなさなくなっていったのかもしれません。

板碑は重要な財産、文化財


 石巻は東日本大震災の被害が非常に大きく、滅失してしまった板碑が散見されます。しかし、その全容は未だに把握できておりません。

 そういった中で、企画展(「石巻の板碑―調査の記録をたどる」)では、過去の調査記録をひも解きながら、これまでに採拓された1,600点を超す板碑の拓本を集めることができました。石巻の歴史を考えるうえで非常に重要であり、博物館にとっても石巻市にとっても大きな財産です。



 2023年1月28日から3月26日まで、宮城県石巻市・石巻市博物館企画展示室で開催された企画展「石巻の板碑―調査の記録をたどる」にて。本企画展では、同博物館が所蔵する板碑や拓本・複製などから、多様なカタチを持つ石巻の板碑をひも解き、その特徴に迫った。また、自治体史編纂等の過程で作成された板碑調査の記録をたどり、震災後の調査結果を紹介するなど、板碑調査のいまが発信された

 
 残念ながら東日本大震災後の復興工事の過程で、震災瓦礫として板碑が廃棄されたこともありました。いま残っているものを次の世代に伝えていくためには、板碑が文化財であるという共通認識を博物館が主導し、つくっていくことも重要な課題だと考えています。また、震災で被災し拓本が消失したと思われる旧雄勝・北上町については、改めて拓本採取に取り組み、現市域全体の情報を網羅することも課題です。

 今後は板碑が文化財であることをより発信し、地域でその価値を共有していきたいと思っています。

◎石巻市博物館
宮城県石巻市開成1‐8
https://makiart.jp/museum/