一般研究員によるトピックス!!
石文化研究所に登録されている一般研究員による情報ページです。
【祈りの石巡り】奈良般若寺十三重石塔(奈良市)
奈良の般若寺に立つ十三重石塔は、花崗岩の石が14.2メートルにも積み上げられた、荘厳な塔です。
観良房良恵上人が荒廃した寺の復興を願って勧進し、それを石工集団「伊派」の創始者である宋人・伊行末(いぎょうまつ)と、息子伊行吉(いぎょうきち)らの手で建長5年(1253年)されたと伝わります。
今回は今年の9月に訪ねた時の、十三重石塔の圧倒的な存在感と、飛鳥時代に開かれた古いお寺の雰囲気を伝えられたらと思います。
秋は境内にコスモスが咲き乱れる「コスモス寺」とも称される般若寺。(訪ねた時期はまだ開花には早かった)
十三重石塔の圧倒的な存在感が、塀の外の駐車場まで漂ってきます。
現在の般若寺の入口
入ると正面側に本堂、右に十三重石塔があります。
段が上にいくにつれてボリュームが逓減していく、そのすぼまり具合が何とも絶妙で、石を何段も積み重ねた細長い構造にも変わらず、安定感と堂々とした佇まいを湛えています。
初層軸部(一段目の石)の上端には方形の孔があけられており、金剛舎利塔・金銅五輪塔・水晶五輪塔など様々な小さな石塔が収められていたそうです。
また、第四層からは宋版細字法華経とそれを収める木箱、第五層からは銅製如来像と仏像他、第八層からは銅造十一面観音、江戸時代の木造仏・経巻・曼荼羅など多数の納入物が発見されました。
まさに未来の子孫達の幸せを祈るタイムカプセルのような塔です。
当時の人々のここまで高いものを作ろうと思い立った強い意志を感じられます。
現在の石塔の頂上にある相輪は4代目。昭和39年の大修理で、初代の相輪を型取りした樹脂製の擬岩が載せられています。
大修理の際に、写真では遠いので分かりづらいのですが、初重軸(一段目の石)、東面に薬師如来、西面に阿弥陀如来、南面に釈迦如来、北面に弥勒如来の坐像が彫られています。
側に立てられている初代相輪。南北朝期、もしくは室町期に大地震で墜落し、文殊山に埋められていたものが昭和初期に発見されここで保存されています。
その後再建されますが、二代目相輪も慶長地震で墜落。
その約100年後に再建された際は青銅製が載せられましたが、この相輪も1854年の安政地震で上部三層ごと墜落しました。(一部破損にとどまったそうです)
幾度となく崩壊の危機を乗り越えて今の姿があるのですね。
寺伝によると飛鳥時代、高句麗の慧灌法師がこの地に寺を建てたのが始まり。その後天平7年(735)聖武天皇の時に、平城京の鬼門鎮護のため堂塔が造営されたと伝えられています。京都から奈良への要路にあたるため、治承の兵火で戦火をこうむりましたが、西大寺の叡尊上人により文殊菩薩を御本尊として復興され、病者など救済活動の拠点寺院となりました。鎌倉時代の優美な建築様式をもつ楼門(国宝)が残っています。
公益社団法人 奈良市観光協会ホームページより転載
修理が必要になった楼門(国宝)は現在閉ざされていました。
西国観音三十三観音石像
般若寺は京都と奈良を結ぶ交通の要所にあることから、戦乱に巻き込まれて本堂が焼けたりもしています。
ここに逃げ込んで助かったと伝わる護良親王や、門前でさらし首にされてしまった平重衡などの供養塔もあります。
また、明治維新後の廃仏毀釈の流れの中で、貴重な仏像や石造物が荒廃の危機にさらされたこともあるのだそう。
時代の大きな潮流に翻弄されてきたお寺とも言えるのではないでしょうか。
日本の歴史の証言者であるこのお寺と、十三重石塔などの史跡が今も変わらず残っていることに感謝しつつ、この寺を後にしました。
おまけ。帰りの近鉄電車内に掲示されていた吊り広告。
関西圏では、般若寺=コスモス寺ということでおなじみなのですね。