特別企画
お墓や石について、さまざまな声をお届けします。
高遠石工と天才仏師 守屋貞治を追って|日本石工調査所 主宰 小松光衛
海岸寺(山梨県北杜市)にある守屋貞治作の十一面観音(写真:蔵地心)
●インタビュー/『月刊石材』2012年11月号掲載(一部再編集)
高遠石工と天才仏師 守屋貞治を追って
日本石工調査所 主宰 小松光衛
まず、私と「高遠石工」との関わりについて説明します。私は上伊那郡伊那町(現伊那市)の出身で、実家は三州街道にある大きな宿場町、伊那部宿(※戦国時代に武田信玄が南進の前線基地としたのが始まりとされる)にあります。同じ上伊那郡の高遠町も現在は伊那市ですので、まさに高遠石工の本貫地(出身地)と言えるところなのです。
自宅に古文書などがあった関係で、地元の郷土史には早くから関心を持っていました。中学生の時は郷土史クラブに在籍し、伊那部宿の古い屋号について調べたこともあります。父からは「高遠は昔、高遠石屋という石工衆を全国に輩出して、各地で旅稼ぎをしていた」という話も聞いていました。父は当時、伊那町の役場に勤めていたので、いろいろと古いことを知っていたのです。
その後、高遠石工のことを本気で調べてみようと思ったのは、東京に上京し就職してからです。30歳のとき、曽根原駿吉郎さんの『貞治の石仏-まぼろしの石工を求めて-』(講談社・1969年刊)を読んだのがきっかけでした。この本に出てくる貞治というのは、高遠出身の名石仏師、守屋貞治(1765年~1832年)のことで、それ以後、貞治の作品を追いかけて、全国を歩き回るようになりました。
光前寺(長野県駒ヶ根市)の賽の河原地蔵。
貞治作の地蔵尊を取り囲むように小さな地蔵たちが佇んでいる(写真=蔵地心)
◆本来の呼称は「高遠石切」
今は「高遠石工」という呼び名が一般化していますが、本来の呼称は「高遠石切」です。石工の仕事を作業種別に分けると、採石工・成形工・石積工・加工工・彫刻工・刻字工・据付工などに分類できますが、もともと高遠石工の旅稼ぎは、石切(採石工)を目的としていました。
七沢石(神奈川県厚木市七沢産の凝灰岩。江戸前期が起源とされる)を開発したのも高遠石工ですが、彼らは誰かに頼まれてそこに行ったのではなく、石を求めて出て行ったのです。これは現地に行けばわかるし、自分も実際に歩いて回ったけれど、高遠には石灰岩の山はあっても、真壁や庵治のような大きな石山は存在しません。確かに、守屋貞治は地元で採れる輝緑岩(閃緑岩)でお地蔵さんを作っているけれど、あれは高遠藩の許可を得てお城の下から採れる石で彫ったものです。その証拠に、高遠城跡には石を切り出していた採石場があり、そこには今でもノミ跡が残っています。
ただし、原則として石を切り出すのは「御止(留)め石」として禁じられていました。また記録を見ると産出量そのものも少なかったことがわかっています。ですから、旅先で高遠石工たちは主に地場産の安山岩や砂岩など軟石を使って各種石造物を加工していました。その後、石切から石造物全般を手掛けるようになり、その技術が評判となって「高遠石工」の肩書きが一種のブランド名として全国に広がっていったのです。
◆高遠石工の起源
その起源については、「鎌倉時代に大和国から相模国に来た大蔵派の石大工が、高遠藤沢郷出身の鎌倉幕府御家人・藤沢清親の伝で伊那谷に入ったものと推定される」といった実しやかな説もありますが、それを裏付けるものはありません。石造物を特徴づける意匠や技術面でも特に共通点は見られませんので、両者を結び付けるのは到底無理なことだと思われます。
それよりも武田信玄との接点から誕生したと見るほうが自然かも知れません。中世に川中島の戦い(1553年~64年)があったように、長野県は武田信玄と上杉謙信の合戦の地で、お互いに領地を取り合っていました。その当時、武田陣営には、攻守両面に不可欠な存在として、今で言う「工兵隊」とも言うべき石工が存在していたのです(三河国野田城の戦いでは、武田軍は甲斐金山の石工衆が井戸を掘り崩して敵方の水源を絶ち、落城に追い込んだとされる)。
歴史的には、西欧のフリーメイソン(かつての石工組合が起源とされる友愛結社)、日本では穴太衆(安土桃山・織豊時代に城郭や寺院などの石垣作りで活躍した石工衆)の存在が知られていますが、石工たちは石垣を積むこともできれば、崩すこともできる。その優れた技術は「味方にとっては心強いが、敵に回すと怖い」「必要な存在だけど、野放しにはできない」という両刃の剣でした。
武田軍の支配下にあり山の国の民である高遠石工たちも、その工作要員として駆り出されていたので、それが高遠石切のルーツとも考えられるのです。口伝によると、旅稼ぎの背景には周辺諸国の情勢を探ろうとする高遠藩の意図もあったようです。外様大名では不可能なことですが、藩主の内藤家は譜代大名でしたので、そういうことができる立場にあった。もし、そうした諜報活動の中で幕府に対する背信行為など不穏な動きや情報を掴んだら、それを将軍家に流せばお手柄として褒められるわけです。ただし、こうしたことが学説として採用されることはほとんどありませんが…。
◆旅稼ぎを物語る古文書の数々
内藤氏が高遠藩の藩主として入城した元禄4年以降は、幕府による検地で石高を減らされたことも影響して財政難の状態にあり、領内の耕地分散を防ぐため、農家の次男以下は他国へ旅稼ぎに出ることが認められていました。
また、石工について藩主は各郷に石切目付を置いて、誰がどこに旅稼ぎに行くのかをしっかり記録し、それをもとに運上金(税金)を取り立てていました。石切目付や代官に提出する「石切人別御改帳」「石切旅稼御改帳」といった古文書が残っています。ですから、「藩が出稼ぎを奨励していた」という人もいますが、それは言い過ぎであって、正しくは「統制していた」と言うべきでしょう。
旅先で石工たちは「高遠石工は由緒正しく、天下御免である…」といったことが書かれた「石破元祖根本之巻」という巻物(いわば現代のパスポート)を携帯し、旅先の名主に対しては、高遠の名主が身元を証明する旨などを記した「国請證文之事」というビザ(査証)のようなものを提出していました。
高遠の中村名主が上州材木町の名主宛てに書いた石切の国請證文。
『高遠の石仏 付 石造物』(高遠町)より転載(以下、『高遠の石仏』)
また受入れ先の名主も、その仕事を請けるに当たって高遠石工に便宜を図るようお願いした請願書(書付け)を村役場の担当部署に提出していました。高遠石工は、彼らの仕事に対する評価はもちろんですが、人柄も真面目(律儀)で、とても評判でした。もし何か悪いことをしたり、良くないものを作ると、後輩の石工が旅稼ぎに行けなくなるので、仕事で手抜きをしたり、村の中を荒らすようなことはなかったようです。
旅稼ぎの石工を受け入れた群馬県昭和村の名主が「高遠石工に便宜を図るように」と村役場の担当部署に提出した請願書のコピー(上)と読み下し(資料:小松)
◆型から彫りモノまで幅広く
高遠石工の作品にどのようなものがあるのか整理すると、下記の4項目に分類されます。
①型モノ(墓碑・五輪塔・宝篋印塔・石灯籠など)
②宮モノ(鳥居・神前灯籠・手水鉢・石祠・神 橋など)
③彫りモノ(地蔵・観音・不動明王・道祖神など)
④石碑(記念碑・歌碑・句碑など)
ただし、もともと農業を主体とした半農半工で、貧しい生活の中で自分たちが食べていくために旅稼ぎに出るようになった経緯があるので、石工としての歴史は比較的浅く、地元高遠には古い宝篋印塔や五輪塔などはありません。
また面白いことに、「高遠石工」の刻銘が入った作品も、地元高遠にはほとんどありません。作品そのものは沢山ありますが、「高遠石工」という肩書きの入ったものは確か2つくらいだったと思います。地元の石工が地元で作ったものに、わざわざ地名を入れるようなことはしませんからね。私の実家がある伊那部宿にも道祖神や藍塔(石祠)、庚申塔などがありますが、いずれも石工名は記されていません。
左から、伊那市長藤地区の道祖神。「道祖神」の文字が花模様で書かれている。桂泉院(伊那市)の塚原卜伝供養碑。前面に「塚原卜伝之碑」とあり、他の3面にその由来がびっしり刻まれ、台石には武士の名前も連名で記される。伊那市西高遠にある道祖神(写真はいずれも『高遠の石仏』より)
しかも地元での仕事は大した儲けにならなかったのか、あまり良い作品は残っていない。石屋さんの中には自分の家のお墓にあまりお金を掛けない人がいるようですが、そういう傾向があったのかも知れません。
石工名が刻んであるのは主に宮モノです。大きいお地蔵さんなど、皆でお金を出し合って作ったものに寄進名を入れることはあるけれど、趣味的な要素の強い庭灯籠や、墓碑や石仏など、人が手を合わせるものに石工名を刻んだものはほとんどありません。それが暗黙のルールだったのか、マナー違反になるのか、あるいはタブーだったのかも知れません。
◆作品は本州全土へ
ところで、高遠石工たちはどの辺りまで旅稼ぎに出かけていたのでしょうか。その分布状況は在銘遺品や古文書などからある程度判明していて、主に関東一円のほか、最北部が青森で、山形、福島、新潟、東海中部では岐阜や静岡、愛知、三重があり、最南部は山口まで及んでいます。
日本の石工の分布と、高遠石工の旅稼ぎ先
(作品の建立地を含む、資料:小松)
愛知県設楽町の名倉地区には、やはり貞治が作った輝緑岩のお地蔵さんがありますが、あれはまだ調査が行き届いていなかった時代に、私が見つけたものです。地元で聞いた話をもとにそこに行ってみると、あったのです。他のほとんどの作品と同じように「貞治」の名前はなかったけれど、貞治が師と仰ぐ願王和尚(後述)の書が銘文に刻まれていました。
その所有者から詳しい話を聞くと、「中馬」と言って、「高遠から馬の背中に載せて運んできた」という言い伝えがあることも判明しました。すでに文化、文政年間の頃ですから、名主クラスの間では「高遠に腕の良い石仏彫りがいて…」みたいな情報を旅人などから耳にする機会があって、「じゃあ、うちも頼んでみようか」といったやり取りがあったのでしょう。
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