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石敢當とは? 柳田國男「はかり石」より

沖縄県内にて。写真撮影:所長(二代目) 

 沖縄へ行くと石敢當(せきかんとう・いしがんとう)を呼ばれる石碑を目にします。どんな意味があるのでしょうか?

 柳田國男先生が「はかり石」(定本 柳田國男集 第一巻「海南小記」筑摩書房)と題して、その由来を推定、推論していますので、下記でご紹介させていただきます(なお、下記はできるだけ読みやすくするため、現代かなづかいによる表記に改め、一部の漢字をかなに変えるなどしています。また現代から見れば、配慮すべき不適切な表現・用語などが含まれていますが、オリジナリティー、歴史的な用語や意味を尊重し、そのままとしています。なお、写真はイメージであり、実際の文中にはありません)。

 

石工技能を生かして「いい石」をつくる現代の石工たちを紹介します。

 

柳田國男「はかり石」

 南の島では至るところ、多くの石敢當(せきかんとう)を見てあるいた。鹿児島まで還って来て石敢當の話をすると、それがどう誤って伝わったものか。土地の学者の折田翁が、何とも合点の行かぬ点で非難をせられた。自分は口碑(こうひ)もただの石碑と同じく、後には苔蒸し漫漶(まんかん)するものだとは感じていたが、かくまで早速には変化しようとは思わなかった。そこでこのついでに石敢當のことを報告する。

 石敢當の石を建てる風は現に東京にもある。東京から北にも捜せばあるらしい。長崎にはもちろんある。鹿児島では名物にかぞえるくらいもある。つまり日本一円の近世の流行であった。したがって沖縄県下の島々にあるものも、いずこの真似とも言いにくいと共に、唐芋同様にここが輸入の水口とも謂われぬ。ただこの石の文字は支那から学んだもの、そうしてあまり古くからの風でないことは、推定しておいても大抵よさそうに思う。

沖縄県内にて。写真撮影:所長(二代目)

 この推定をさらに有力にするには、八重山における自分の実験であった。石垣島の四箇村でも、石敢當の立ててあるのは鹿児島県と同じく、丁字路の突(とつ)あたり、人家の表口または石垣の角などで石の形にも著しい変化はないが、たった一つの珍しいことは、文字を刻してない石敢當のあることで、これを土地の人は八重山風に、イシガントウと呼んでいる。年寄りや女はまたビジュルとも謂っているが、これが石敢當の古い名称と思われた。あるいは二つ別々の物を、混同したのではないかとも思って見たが、その石のありどころ、その高さが二尺と三尺との間で、上の方が少しく細り、頃合いの自然石か、もしくはわずかの人工を加えたものなることも双方まったく同じで、これに対する信仰もまた同じである。相異は単に文字の有無で、文字あるものは概して新しい。かつビジュルという名前も、必ずしも無文の石だけに限るのではない。

 沖縄本島にも字を刻せざる石敢當はあったのかも知れぬが、自分には心付かなかった。ただ国頭郡誌を見ると、国頭地方には別にビジュルと名づくる信仰上の石があった。これは内地の村々にあるハカリ石、岐阜県などで重軽様(おもかるさま)というのと同様に、祈願ある者が両手で持ち上げ、重さ軽さの感じによって、心中の祈念が叶うか否かを卜(ぼく)するために用いられる。すなわち上古以来の石占(いしうら)である。石占の信仰が絶えて形式のみ残る地方では、一方には力石と謂って、一種青年の運動具となり、また他の一方には弁慶の礫石だの、牛若の背競べ石だのの伝説となっている。石を霊物として神意をこれに問うのは、日本には普通の習俗だから、その類例を沖縄のビジュルに見出すのは不思議とは思わなかった。しかも国頭郡誌の著者島袋君などは、ビジュルと石敢當とは別の物だと、今でも信じておられるそうだ。

力石(柳森神社、東京・神田須田町)。写真撮影:所長(二代目) 

 ところが八重山のビジュルは石敢當である上に、ここにはまだハカリ石の信仰がやや遺っている。すなわちこの石が倒れると雨が降ると信じている。これを転用して雨乞いにはこの石を倒す。内地の方でも村の石占には、晴雨は主要なる一問題であった上に、石占に用いる石は今の石敢當と同じく、魔除けの効を具うる地境の立石が、やはりまた多かったのである。

 そこで自分は進んでこう推論しようとした。丁字路の衝などに石を立てて、目に見えぬ邪神の侵入を防ぐ風習は古く、その石に石敢當の三字を刻する行事は新しい。支那から輸入したのはこの文字を彫り入れる風だけである。支那でも南部の市邑(しゆう)にはひろく石敢當の石があるが、恐らくはこの刻字の選定は古いことであるまい。以前は多分魔除けの石神を武神と考え、朝鮮などの如く石将軍と彫っていたのが、歴史上の人物にちょうどこの場合に似つかわしい、石敢當という将軍があることを知って、始めてこの文字が流行したのだろう。実在の人であると否とは、迷信者流の問うところではなかったはずである。まずこれだけのことは確かに鹿児島の史談会で述べた。

 また石敢當何人ぞやということは、如何にして日本にこの種の石を建て始めたかの説明に、ちっとも役立たぬと今以って信じている。そうして我々の問わんとするは後者である。宮古の東仲宗根(あがりなかそね)の海際の芝生に、ぼつんと一つ文字がない石が立ててある。むかし少年をこのそばに連れて来て背丈を検し、石より高くなっていたら、人頭税を課し始めたものだと伝えている。すなわちこれもまたはかり石の一口碑である。石占の方法は重さだけではなく、あるいは高いところへ投げ上げて乗るか落ちるかを試みたり、あるいは縄などを持って行って長さを比べたりもした。その信仰が廃すると、次いでまたそんな説明的の伝説も起こる。江戸期の随筆の石敢當説も、多くはこれに近い付会の説明を信じたものであったから、顧みる価値がないのである。