墓を訪ねて三千里

墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。

命がけで真理を訴えた天文学の父~ガリレオ・ガリレイ

2022.02.04

海外

フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に眠るガリレオ。
墓上の半身像は右手に望遠鏡を持つ


 ガリレオ・ガリレイの墓参をするために、フィレンツェ駅からサンタ・クローチェ聖堂に向かう時、自然に足早になっていく。彼は学問を迫害する権威への抵抗の象徴だ。科学研究の自由を守るため命がけで戦う勇気を持っていた。そこに痺れるし、憧れる。

 ガリレオは1564年にピサで生まれた。少年時代から科学好きでピサ大学に入学し、18歳のある夕刻、大聖堂のランプが揺れるのを見ているうちに、揺れが大きくても小さくても往復する時間が同じであること、振り子の速度はロープの長さによって決まることを発見。学資不足のために退学した後、家庭教師をやりながら書き上げた科学論文が評価され大学教授となる。当時は「物体の落下速度は重さに比例する」と信じられていたが、ガリレオは大小の球の落下実験によって「軽くても重くても落下速度は同じ」と証明した。

 この時代、教会の権力は絶大で、教会組織の腐敗を批判する者やカトリックの教えに反する言動を行った者は“異端者”として火あぶりにされた。36歳の時には、地球の自転を主張した哲学者ブルーノが火刑となっている。そのような状況下で望遠鏡が発明され、ガリレオは天体望遠鏡を自作し、人類で初めて宇宙を望遠鏡で観測した。そして木星に複数の月があること、天の川が星の集団であること、月にはクレーターがあることを発見し、著書『星界の報告』(1610)で発表した。

 木星の周囲を月が回っているのを見たガリレオは、天動説への疑念を深める。続けて金星が大きさを変え、距離が変化していることにも気づいた。さらに太陽の黒点を発見し、黒点の移動から太陽の自転を知った。

 これらの観測結果から地動説の正しさに確信を持つが、52歳で異端審問所審査にかけられ、「地動説について口頭でも文書でも議論してはならない」とローマ教皇庁から命令を受けた。〝地動説は真理ではない〟と宣誓書を書かされた際に、「それでも地球は動いている」と呟いたと伝えられる。

 16年後(68歳)、天動説と地動説を両論併記した『天文対話』を刊行。ガリレオは再び異端審問所に呼ばれ、翌年に「終身禁固刑」が言い渡される。後に監視付きの軟禁に減刑されたものの、死ぬまで謹慎は続いた。

 著作の発禁、最愛の長女の病死、両眼の失明など試練が続くが、地動説という真理への情熱は消えず、コペルニクスを支持する『新科学対話』を口頭筆記で書かせ、原稿を軟禁中の家からプロテスタント国・オランダの出版業者に密輸し刊行に漕ぎ着けた。

 その4年後に77歳で他界。罪人として死後100年間も墓を作ることが許されず、ヴァチカンが有罪判決を誤りと認め破門を解いたのは、実に死後350年も経った1992年のことだった。

 世間で“常識”とされるものに異論を唱えるのは、狂人扱いされるリスクを負う覚悟がいる。中世の場合、火刑に処される可能性もあった。惑星の楕円軌道を発見したケプラーの母親は魔女裁判にかけられている。それにもかかわらず信念を曲げなかったガリレオに心から敬意を表したい。

 墓所のサンタ・クローチェ聖堂は、マキャベリ、ロッシーニなど著名人が眠っている。ガリレオはあのミケランジェロの墓と向き合っており、墓マイラーにとって実に濃密な空間だ。


若きガリレオが振り子の法則に気づいたピサの大聖堂。
後方は有名な斜塔

 

※『月刊石材』2013年6月号より転載

 

カジポンさん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。

 

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