墓を訪ねて三千里

墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。

“サッチモ”の愛称で慕われたジャズ創世記の巨星ルイ・アームストロング

2022.02.08

海外

「Louis Armstrong」の上に愛称の“Satchmo”(サッチモ)が金文字で彫られている。1.5メートルほど手前に夫婦のプレート型墓標もあり


 ルイ・アームストロングは「キング・オブ・ジャズ」と讃えられたジャズ史上最初の天才であり、トランペットの即興演奏を得意とし、高い音色を長時間キープするなど優れた演奏技術で知られた。

 ヴォーカリストとしても有名で、「ズビズビ・ダバダバ」と言葉を即興的につなげ、声を楽器代わりに使う歌唱法“スキャット”の発明者として知られる。

 愛称は“サッチモ(大口)”。由来はエラ・フィッツジェラルドが彼の大きな口を「Such a mouth ! 」と呼んだことによる。

 サッチモは1901年にルイジアナ州ニューオーリンズの裏町で生まれた。少年時代は非行を繰り返し、新年を祝うために道端で発砲したところ、警官に見つかり少年院へ送られる。少年院でブラスバンドに入ったことでコルネットと出会い、楽器演奏の楽しさに目覚めた。出所後は町のパレードなどで演奏して人気者となり、16歳でプロ・デビューを飾る。

 1925年(24歳)、当時のジャズの中心地シカゴにて、念願だった自身のバンド“ホットファイブ”を結成。サッチモが活躍し始めた1920年代は、それまでバンド全員が揃って演奏するスタイルが一般的だった。彼は演奏スタイルを革新し、曲の途中に独自の「ソロ即興パート」を入れ変化をつけた。たちまち人気に火が付き、翌年にはジャズ史上初のスキャット曲「ヒービー・ジービーズ」を録音。この曲を聴いたシカゴ中のジャズ・ファンが、サッチモのしゃがれ声に憧れて風邪を引こうとしたという。スキャットのおかげで、人々は同じ歌を様々な歌い方で楽しめるようになったのだ。

 1957年(56歳)、南部アーカンソー州のリトルロックで高校入学を希望した黒人学生九名が、人種差別により入学を阻止される事件が起きた。差別主義者のフォーバス知事は、登校初日に州兵を高校に派遣し、黒人学生の登校を実力で阻止する。アイゼンハワー大統領はリトルロックの出来事を知りながら何も行動しないため、怒ったサッチモはメディアのインタビューで「フォーバス知事は無学で、アイゼンハワー大統領は意気地なしだ」と感情を爆発させた。

 彼自身、これまで公演先で白人と同じホテルへ泊まれなかったり、劇場で黒人専用の出入口を強制されるなど、何度も差別を体験していた。サッチモの怒りは新聞で大きく取り扱われ、すぐさま世界中に伝わった。マネージャーは大統領に対する非難発言の撤回を勧めたが、サッチモは逆に批判を強め、予定していたソビエト公演を「黒人をこのように酷く扱うアメリカを代表してソビエトに行くことは出来ない」とキャンセルした。

 対応を世界から注視されたアイゼンハワーは、かつてノルマンディーで戦った米軍きっての先鋭部隊・第101空挺師団をリトルロックへ派兵した。黒人学生らは軍に護衛されながら、ついに入学を果たすことが出来た。

 63歳で録音した『ハロー・ドーリー』は当時人気絶頂だったビートルズを抜き全米No.1ヒットに輝き、3ヵ月続いていたビートルズの連続1位記録をストップさせ音楽関係者を仰天させた。

 1971年、ジャズ界の巨人は69年の人生を終える。生涯のレコーディングは約1,500曲。どんなに軽いポピュラー曲でもサッチモが歌うと深みや哀愁が生まれ、人々は歌から人生を感じ取った。

 墓はニューヨーク州のマンハッタン島の東側、クイーンズ地区のフラッシング墓地。墓石の上部にはトランペットの彫刻が置かれている。「ジャズとは自分が何者であるか、でしかない」(ルイ・アームストロング)。


上部のトランペット型オブジェには溢れんばかりのペニー銅貨が。出演映画『五つの銅貨(ファイブ・ペニーズ)』を意識してファンが置いていくのだろう

 

※『月刊石材』2014年10月号より転載

 

カジポンさん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。

 

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