墓を訪ねて三千里

墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。

「神のごとき」と讃えられた男~ルネサンスの巨人ミケランジェロ

2022.02.08

海外

サンタ・クローチェ教会のミケランジェロの墓。
遺言に従い、故人が心から愛していたフィレンツェに葬られた


「最大の危険は目標が高すぎて達成出来ないことではない。目標が低すぎてその低い目標を達成してしまうことだ」(ミケランジェロ)。

 美術史上、最も偉大な芸術家の1人であるミケランジェロは、彫刻家、画家、建築家、詩人であり、そのどれもが傑作ぞろい。

 1475年にフィレンツェ近郊で生まれ、10代前半から絵画や彫刻で頭角を現した。24歳のときに、十字架から降ろされたキリストの亡骸を抱える若きマリアの彫像『ピエタ』が完成すると、そのあまりの美しさに人々は「神のごときミケランジェロ」と感嘆し、名声は瞬く間に広がった。

 26歳から4年の歳月をかけて彫り上げた『ダビデ』像は高さ4.3メートルにもなり、旧約聖書の英雄を内面の炎まで表現したこの作品を、人々は「古代ギリシャ・ローマ彫刻を超越した」と絶賛、フィレンツェのシンボルとして市庁舎の前に設置した。この大作に挑む際、ミケランジェロが習作を作らず、いきなりノミで刻み始めたことから、驚いた周囲の者が「なぜそれほど急ぐのか」と尋ねると、「石の中に埋もれている人が早く解放してくれ、早く自由にしてくれと、私に話しかけているのだ」と答えたという。

 33歳からはローマ教皇の依頼でシスティナ礼拝堂の天井画(旧約聖書「創世記」の物語)に挑む。最初は5人の助手を使って制作していたが、完全主義者で短気な彼は助手を追い出し、ひとりで土を練り、壁を塗り、絵筆を握り続けた。高さ20メートルの足場で立ったままエビ反りになり、4年がかりで奥行き約40メートル、幅約14メートルの超大作を描ききった。登場人物は400人に達し、そのすべての人間に個性があった。

 四半世紀後、61歳になった彼は同じ礼拝堂の壁に、今度は『最後の審判』(14メートル×12メートル)を描き始め、5年を費やして完成させた。中央に右手を掲げて審判を行うキリストを配置し、その左側には祝福され天国に昇る人々を、右側には罰せられ地獄に墜ちる人々を描いた。彼はこの作品に自画像として異形の“人間の皮”を「地獄側」に描き込んでいる。

 晩年は建築家としてサン・ピエトロ大聖堂などの建築現場に立った。詩人としても多くの詩を残し、メディチ家の墓にそえた像と故人に次の四行詩を書いた。

「われ、石に眠るこそ、楽しみなり/破壊、恥辱の多き世に/見ず聞かざるは、幸せなり/されば目覚ますな、ひそかに語れ」
 
 1564年、88歳のミケランジェロが死を前に呟いた言葉は、「私が残念に思うのは、やっと何でも上手く表現出来そうになってきたと感じるときに、死なねばならぬことだ」。現在、ガリレイやマキャベリの墓があるサンタ・クローチェ教会に眠っている。

 僕らは日々の生活の中で、「人間の一生なんて短い、出来ることなどしれている」、そんな言葉を聞くことがある。でも、システィナ礼拝堂の天井画や『最後の審判』の前に初めて立ったとき、“人間はたった1人でこんなことが出来るのか! 4、5年でここまで描けるものなのか!”と、人間の可能性の極限を見た思いがした。

 そしてサン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』の美しさに、キリスト教徒ではなくとも泣きそうに。無実で処刑されたキリストと、死んだ子を抱く親の気持ち。文化や言葉を超えて伝わる悲しみ。

 石の彫刻は500年前の姿のまま今に残り、ルネサンス時代の人々と時間の壁を超えて感動を共有する。


サン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』。
これほど精神的な深みを持った作品を24歳の青年が彫り上げたことに驚愕

 

※『月刊石材』2014年8月号より転載

 

カジポンさん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。

 

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