墓を訪ねて三千里

墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。

西郷隆盛~西南戦争に散った私学校生徒と眠る

2022.02.06

日本

重量感のある西郷の墓。
周囲は桐野利秋(中村半次郎)など同志の墓がいっぱい。
若い戦死者も多く胸が詰まった

 

 幼なじみの大久保利通、長州の木戸孝允らと共に維新の三傑と呼ばれる西郷隆盛。通称吉之助、号は南洲。身長約180センチ、体重約110キロという当時では規格外の巨体だが、その人生も波瀾万丈だった。

 1828年に薩摩藩の下級藩士として生まれ、藩政改革の意見書が名君・島津斉彬の目にとまって重用されたが、25歳で結婚するも暮らしは貧しく、2年後に妻の実家から“貧乏で娘が哀れ”と離縁させられた。31歳のときに大老・井伊直弼による反体制派の大粛清・安政の大獄が始まり、幕政に否定的だった西郷は追っ手が迫って行き場を失い、親友と海に身投げした。西郷は引き上げられたが、友は死亡。その後、奄美大島へ3年間流された。

 赦されて藩に戻ったものの、実権を握っていた島津久光と考えが合わず再度流罪となり、知行や家財を没収され、奄美大島よりさらに遠い沖永良部島に流された。島の牢は風雨にさらされ、死ぬのを待つだけの流刑であった。

 2年後に大久保の尽力で薩摩に戻ると、家老の小松帯刀と組んで倒幕運動を展開。坂本龍馬の仲介で長州と薩長同盟を締結する。最強の軍事力を持つ薩摩藩と、全藩きっての武闘派長州藩が手を組んだことで時代が大きく動く。幕府軍との戊辰戦争が勃発すると、薩長軍は勝利を重ねて江戸に入り、西郷は勝海舟との会談で江戸城の無血開城を実現させた。

 岩倉使節団の外遊中、留守政府を預かった西郷は、裁判所の設置、国立銀行開設、太陽暦の採用、人身売買禁止、学制発布と女学校の設立、キリスト教解禁、警察制度の整備、田畑売買の解禁、抽選による徴兵制、公園の制定、地租改正条例など、諸改革のほとんどを2年でやり遂げた。洋行組が帰国すると、外交方針を巡って意見が対立し、西郷は職を辞して帰郷する。

 新政府は官僚の汚職が相次ぎ、腐敗構造を正す自浄能力がなかった。西郷は再革命の必要性を痛感し、私学校を設立して生徒に武術を教え“その日”に備えた。

 1877年、西郷のカリスマ性を恐れた新政府による暗殺計画が露見し、血気にはやる生徒たちが武装蜂起した。「おはんらがその気なら、オイ(自分)の身体は差し上げ申そう」。この西南戦争で西郷軍は大いに奮戦するが、政府軍の物量の前に追い詰められ、腰と足を撃たれた西郷は「もうここいらでよか」と同志に介錯を頼んだ。享年49。翌日の新聞は「賊軍の首領・西郷を成敗」と書きたてた。

 西郷の墓所は鹿児島市の南洲墓地。墓参は鹿児島中央駅でレンタルできる電動アシスト自転車がチョ~便利! 広い市内を快走し、西郷が散った城山など登り坂もドンドン行ける。墓地の長い階段を登ると足下に市内が一望でき、正面に桜島の堂々たる勇姿が見えた。

 墓地には西郷の墓を中心にして、西南戦争で散った生徒たちの墓が400基ほど立ち並ぶ。多くの墓に名前と生涯を記した立札があり、彼らが鹿児島の人々から愛されているのがよく伝わってきた。

※巡礼が桜島の噴火と重なり、コンタクトレンズに火山灰が入って何度も激痛が。コンタクトの人、万一に備え絶対に眼鏡を持っていった方がいいです!


墓地から見える桜島。
郷土を愛した彼らにとって、当地は最高の墓所だろう

 

※『月刊石材』2013年11月号より転載

 

カジポンさん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。

 

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