墓を訪ねて三千里

墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。

永遠の青春スターとしてハリウッドの伝説となったジェームス・ディーン

2022.02.07

海外

裏表に名前があり、レコードでいうなら「両A面シングル墓」。僕が確認した同タイプの墓は、アウトローのデリンジャー、幕末の土佐藩家老・後藤象二郎のみ


「まだまだ自分のことを何分の一も知っちゃいない。…だから生きることにせっかちなのさ」(ジェームス・ディーン、死の1週間前に)。

 主演俳優になって半年足らず、24歳の若さで他界したジェームス・バイロン・ディーンは1931年にインディアナ州で生まれた。文学好きの母は詩人バイロンの名をミドルネームにした。九歳の時に母がガンで病没すると、父は仕事の多忙を理由に、農家の姉夫婦にディーンを預けた。10代で演劇の魅力に目覚めたディーンは、ロスのカリフォルニア大学(UCLA)演劇科に進む。

 演技力が評価され19歳でペプシのCMに出演したが、ディーンの悲願は映画出演。20歳で『折れた銃剣』のエキストラとして銀幕デビューを果たす。しかし、4本続けて出演するもすべて端役で名前さえ出ない。ディーンは演技を磨くためニューヨークに移り、名門演劇学校アクターズ・スタジオに応募する。そして150倍という天文学的な倍率を突破して、歴代最年少の21歳で入学した(同校はロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジャック・ニコルソン、マリリン・モンローらを輩出)。

 数本のテレビドラマに出た後、ブロードウェーの舞台が高く評価され様々な新人賞に輝いた。複数の映画関係者がディーンの才能に惚れ込み、映画『エデンの東』の主役キャルに大抜擢される。劇中では父親の愛に飢えた繊細な息子を鮮烈に演じきり、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。初出演の長編でアカデミー賞にノミネートされたのはディーンを含めて5人しかいない。「ジミーは私の演出でキャルを演じたのではなく、ジミー自身がキャルそのものだった」(エリア・カザン監督)。

 同年、『理由なき反抗』でも等身大の悩めるティーンエイジャーを演じ、1950年代の若者たちのシンボルとなった。続けて大作『ジャイアンツ』では、準主役で成り上がりのひねくれ者を演じ、演技派俳優としてさらなる成長を見せた。

 時代の寵児となったディーンだが、悲劇は突然訪れた。1955年9月30日、銀色のポルシェ550スパイダー(ポルシェ初の市販レーシングカー)でカリフォルニア州のレース会場に向かっていた彼は、夕刻、州道の分岐点で横から出てきた車と時速135キロで衝突した。同乗者も相手の運転手も生命に別状はなかったが、ディーンは即死状態だった。故人にもかかわらず『エデンの東』『ジャイアンツ』と2年連続でオスカーにノミネートされたのは、ハリウッドの歴史上ディーンただ1人である。

 ディーンが眠る農村フェアマウントは田舎で公共交通がなく、墓参は大変だった。まず米国中部インディアナポリスから北上する長距離バスに乗り、途中下車して停留所の売店から乗合タクシーを呼んでもらい、ディーンの故郷の町マリオンまで移動。そこからフェアマウントへ行くと村の中心部で降ろされるため、徒歩で村外れの墓地へ向かった。

 大豆畑を抜けてたどり着いた彼の墓はピンク色でキスマークがいっぱい。珍しいことに墓の両面に名前が彫ってあった。レコードの両A面という印象。これなら命日にファンが大勢訪れても、両サイドから追悼できて故人と墓トークする時間が長くとれる。永遠に24歳の天才俳優に合掌。


タクシーの運転手さんいわく
「ファンが墓を削るから周囲がガタガタなんだぜ」。
キスマークもいっぱい

 

※『月刊石材』2014年4月号より転載

 

カジポンさん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。

 

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