墓を訪ねて三千里
墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。
織田信長 ~戦国のカリスマの墓は全国15ヶ所以上
阿弥陀寺にある信長の墓(右側)。長男・信忠の墓と並んでいる
一昔前、戦国武将の墓参りをして出会うのは、定年後に趣味で戦国史を研究されているご年配の歴史ファンが大半だった。
ところが、4、5年ほど前から、美形化された伊達政宗や真田幸村が活躍するゲームやアニメの影響で、「歴女」と呼ばれる歴史好きの若い女性がどっと増え、東北地方の山中に眠る武将の墓前など、“どうしてこんなところで”というような場所で女性の一団を見かけて仰天することがしばしばある。
中でも特に墓参者が絶えないのが、京都市の中心街に位置する本能寺の織田信長(1534‐1582)の墓だ。
信長は尾張・那古野城の城主、織田信秀の子。26歳の時に、わずか2,000の兵で今川義元の大軍2万5,000を桶狭間で撃破し武名をあげる。その後、浅井、朝倉を姉川で破って上洛。15代将軍足利義昭を京から追放し、室町幕府を滅亡させた。続いて、長篠で武田勢を壊滅させ、七重の大天守閣を持つ安土城を築き全国支配に乗り出す。
経済面では課税を免除した楽市・楽座を設け、関所を廃止し商業を発展させた。外国文化への好奇心が強く、ビロードのマントと西洋の帽子を着用し、側近には彌介と名付けた黒人もいたという。
北陸方面を柴田勝家に、中国方面を羽柴秀吉に、関東方面を滝川一益に攻略させたが、天下統一を目前にして明智光秀の裏切りに合い自刃。享年47歳。
信長の墓と伝えられるものは、京都だけでも本能寺(三男・信孝が集めた遺骨を納める)、大徳寺総見院(法要のため秀吉が建立)、阿弥陀寺、大雲院、妙心寺玉鳳院と5ヵ所あり、和歌山・高野山(1970年に供養塔が見つかる)、滋賀・安土城跡(一周忌の後に秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた)、近江八幡の西光寺(信長の遺歯を納める)、大阪・堺の南宋寺本源院、富山・瑞龍寺(前田利長が信長父子の分骨を納めた)、岐阜・崇福寺(信長父子の遺品を側室が寺内に埋め位牌を安置)、静岡・西山本門寺(信長と懇意の囲碁名人・本因坊算砂が作らせた首塚)など、全国に15ヵ所以上ある。
その中で、僕が“本墓”と考えているのが、京都市上京区の阿弥陀寺だ。寺伝や当時の公卿の日記によると、住職・清玉上人は信長と深く親交があり、炎上する本能寺から信長の骨を密かに運び出して阿弥陀寺に埋葬したという。
秀吉は同寺に三度も使者を出して、高額の法事料や広大な寺領授与を条件に主君の遺骨を求めたが、寺側は政治利用を嫌って断固拒否。怒った秀吉は寺領を8分の1まで削り報復した。
阿弥陀寺には本能寺の戦死者112名が葬られ、森蘭丸ら側近の墓もある。宮内庁は大正期の調査で同寺の信長公墓が廟所であると結論。通説では「信長の骨は見つからず」とあるだけに、多数の伝承墓に歴史のロマンを感じる。
本能寺・本堂背後の墓。複数ある信長の墓では最も知名度が高い
※『月刊石材』2011年6月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社