特別企画

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高野山大学総合学術機構課長 木下浩良氏「高野山奥之院の『豊臣家墓所』について」

2021.02.06

 高野山の奥之院には全国の戦国武将が立てた石塔が群立しています。この度、筆者はその中の豊臣家墓所の石塔を調べる機会を得ました。その結果、これまで知られていない新しい豊臣家の石塔が確認できました。

 このことは新聞報道をはじめとして、ヤフーニュースにも取り上げられて、好評を得ました。筆者は、意外なことで驚いています。やはり歴史上の著名な人物であり、取り上げて頂いたものかと思っています。

 その成果については、近くまとめて公表をしようと準備を進めていますが、『月刊石材』連載の特別編としまして、その概要をまずはご紹介したくペンを取りました。読者の皆様のご参考に少しでもしていただければ、望外の喜びです。

 高野山奥之院の豊臣家墓所は、空海の御廟の前の御廟橋の手前の一角にあります。現状で11基の石塔が並んでいます。上記写真が、その豊臣家墓所の全容です。同墓所の正面から撮ったもので、11基の石塔の上に分かりやすいように番号を附しました。

 正面中央に大きな五輪塔があり、①としました。これが豊臣秀吉の五輪塔です。この秀吉の五輪塔の前面に八基の石塔が並んでいます。この石塔を左から、②~⑨と番号を付けました。右側には二基の石塔が並んでいて、⑩・⑪としました。以下、順番に見ていきます。

※写真はいずれも筆者提供

①豊臣秀吉の五輪塔


 花崗岩製で、五輪塔部分だけで2メートル程あります。地輪の正面には、「豊臣秀吉公之墓」と刻しています。銘文は、地輪の左側面から背面と右側面に、次のように刻されています。

「豊太閤公神智雄略気宇豪壮比倫ヲ絶シ、克ク上古列聖ノ御偉業ヲ継ギ、皇威ヲ海外ニ赫輝スソノ大勲偉烈ニヨリ豊国大明神トシテ祭祀セラル。而シテ公ノ薨去セラレテヨリ此ニ三百四十有一年、今ヤ東亜ノ天地風雲急変シテ、曠世ノ大業亦緒ニ就カントスコノ時ニ当リ、公ノ英霊現前ニ再来シテ、興亜ノ建設ニ冥設ニ冥護ヲ垂レ給ハンコトヲ熱願シ、乃テ今茲公ノ忌辰ヲトシ謹ミテ、一字一石ニ法華経ヲ書写シ、且ツ京都豊国廟域ノ霊土ヲ移シ、コレヲ先ニ公ノ復興セル高野ノ浄域ニ埋納シテ、以テ公ノ墓ヲ建立スト云爾。昭和十四年九月十八日 豊公会」

 意外なことですが、銘文にあるように、秀吉の石塔は昭和14年(1939)9月に造立されたものです。日中戦争が始まって3年目です。同年5月にはノモンハン事件が起こり、前年の昭和13年(1938)には国家総動員法が公布されています。太平洋戦争が始まるのが昭和16年(1941)です。秀吉の石塔は、日本が戦争に突き進んだ頃に立てられたのでした。

 銘文にある「皇威ヲ海外ニ赫輝スソノ大勲偉烈ニヨリ豊国大明神トシテ祭祀」と、「公ノ英霊現前ニ再来シテ、興亜ノ建設ニ冥設ニ冥護ヲ垂レ給ハンコトヲ熱願シ」は、この石塔を立てた背景を示しています。秀吉の文禄慶長の役における朝鮮半島への出兵をたたえてのことが、経緯としてあったことが分かります。

 石塔造立者の「豊公会」とは、当時の秀吉のファンクラブのような会で、政財界人や軍人により組織されていました。本五輪塔の開眼式には陸海軍の重鎮たちも参列しています。野村吉三郎海軍大将(日米開戦時の駐米大使)も参列したことが、当時の新聞記事に見られます。

 秀吉は逝去の後、豊国大明神という神様になりました。神様の秀吉には、石塔は造立されなかったものと推定します。
 同じ例として、徳川家康が挙げられます。家康も東照大権現という神様となり、高野山では東照宮が建てられましたが、石塔は立てられませんでした。

②宝篋印塔(写真なし)
 銘文はありませんが、中世末頃の秀吉の時代に造立されたものと推測されます。砂岩製です。

③秀吉の姉ともの五輪塔


 砂岩製です。高さ125センチ。銘文は、「天正廿年、三位法印後室、逆修、五月七日」とあります。「三位法印」とは秀吉の姉ともの夫の三好吉房のことと考えられます。三好吉房は、元は弥助という農夫でしたが、秀吉の出世により武士となり、「三位法印」と称されました。この三好吉房とともの両人の子供が、関白・豊臣秀次です。

 後室とは未亡人のことです。ここで問題が生じます。三好吉房の没年が慶長17年(1612)であり、銘文に刻された天正20年(1592)当時、吉房は生きています。ということは、ともが天正20年(1592)に逆修したことは間違いありませんが、実際に自身の逆修の石塔を高野山に立てたのは、夫が死没した慶長17年(1612)以降のことだと考えられます。

 石塔の銘文は、いろいろなケースがあります。石塔が造立されたとする前後の状況を考慮して、果たしてその石塔が実際にいつ造立されたのか判断する必要があります。

「逆修」とは現在でいう生前葬のことで、生きているうちに自身の葬儀をすることをいいます。中世を通じて、江戸時代の中頃の元禄の頃まで「逆修」は広く行なわれていました。

 なぜ、逆修が盛んに行なわれたかといいますと理由がありました。葬儀をする功徳を七分割して、葬儀をする人には七分の六の徳が与えられて、亡くなった人には残りの七分の一が与えられると信じられていました。それで、生前に自分自身の葬儀を行なうと、七分の七の全部の徳分が得られることになる訳です。これを「七部全得」といいました。

 ともが死去するのは寛永2年(1625)です。おそらく、夫が死亡した慶長17年(1612)の直後に、本五輪塔は造立されたのではないかと考えます。豊臣氏の力は弱体化して、世は徳川家康による江戸幕府開幕間もない頃です。ともが自身のことを「三位法印後室」と主張した理由には、そのような世情の変化に対しての抵抗もあったのでは、と推測します。

④慶安4年五輪塔


 砂岩製です。高さ173センチ。銘文は、「施主生国相刕住浅野清兵衛友重立之、法性院殿□□得授大姉、菩提、慶安四天三月廿一日入寂」とあります。

 相模国(現在の神奈川県のうち川崎市・横浜市を除いた地域)に住む浅野清兵衛友重が、慶安4年(1651)3月21日に亡くなった、法性院殿□□得授大姉の菩提のために造立したものと分かります。本五輪塔はこれまで、慶長4年(1599)のものとされていましたが、間違いでした。

 五輪塔造立者の浅野清兵衛友重については、どのような人物か不明ですが、被供養者が院殿号の法名を有していることから考えますと、一般庶民ではなく、相当の武士であったことが考えられます。

 ただ、本五輪塔は秀吉の時代から50年後のものですので、この石塔が豊臣家一族のものかは疑問に思います。