特別企画

お墓や石について、さまざまな声をお届けします。

高野山大学総合学術機構課長 木下浩良氏「高野山奥之院の『豊臣家墓所』について」

2021.02.06

⑤豊臣秀長妻の五輪塔


 砂岩製です。高さ193センチ。銘文は、「大納言殿北方慈雲院、芳室紹慶、逆修、天正十九年五月七日」とあります。「慈雲院芳室紹慶」とは、秀吉の弟の豊臣秀長の正室のことです。

 豊臣秀長の正室の慈雲院芳室紹慶が、天正19年(1591)5月7日に逆修をして造立した石塔と分かります。銘文にある「大納言殿北方」とは秀長が大納言でしたので、その大納言殿の北方ということを示しています。秀吉の正室のねねが「北政所」と称されましたように、「北方」とは正室を意味しています。

⑥豊臣秀長の五輪塔


 砂岩製です。高さ183センチ。銘文は、「大光院殿前亜相、春岳紹栄大居士、天正十九年正月廿二」とあります。「亜相」とは、大納言の唐名です。唐名とは、日本の官職名を中国風に呼んだ名前です。

 江戸時代の水戸光圀は水戸黄門と称されていますが、光圀は中納言で、その中納言のことを唐名で黄門というのと同じです。「大光院殿春岳紹栄大居士」が、秀長の法名です。

「天正十九年正月廿二」は、秀長の没年月日である天正19年(1591)正月22日を示しています。この場合は「日」が省略されていますが、中世に造立された石塔には時々見られる手法です。

 この豊臣秀長の五輪塔を造立したのは、秀長の妻の「北の方(北方)」と推理されます。夫の五輪塔を高野山に造立して、自身も生前葬の逆修をして⑤の五輪塔を立てたことが推測されます。「北の方」は自身の葬儀を行ない、高野山に石塔を造立したのでした。この二基の五輪塔は同型と判断されます。二基は、同時に造立されたものと推測します。

 「北の方」の五輪塔の銘文には、上記のように「天正十九年五月七日」とあります。この日は、秀長没後、132日目のことでした。この年の閏月は1月でした。

 おそらく、秀長の百ヵ日の忌日の法要を済ませた後に、「北の方」が秀長の後を追って生前葬の逆修をしたものと思われます。秀長夫妻の大きな夫婦愛を垣間見るようであります。
 それと、高野山に石塔を造立するとなると、経費はもちろんのこと、準備等に時間を要して、没後百ヵ日の時間の経過が必要だったようにも推定されます。

⑦秀吉の母大政所の五輪塔


 砂岩製です。高さ167センチ。銘文は、「天正十五年、青巌貞松、逆修、六月廿一日」とあります。「青巌貞松」とは、秀吉の実母の大政所(仲)の法名と考えられます。その訳は、秀吉が大政所の没後に高野山に剃髪寺を建立して大政所の追善供養をし、この剃髪寺が後に青巌寺となったとされているからです。

 この石塔は、大政所が天正15年(1587)6月21日に逆修(生前葬)をして造立したものと考えます。大政所は、この5年後の天正20年7月22日に死去しています。

 ただ、剃髪寺という名称から考えますと、前記の説は少し違うのではと推測します。「剃髪」とは仏門に入り、髪をそり落とすことをいいます。五輪塔の銘文より、天正15年(1587)に大政所は逆修をしています。この時に、大政所は自身の葬儀をしたことになり、髪を切ったものと思われます。現在、大政所の肖像画が京都大徳寺に残されていますが、尼僧の姿として描かれています。

 そもそも、葬儀をして戒名を頂くことは、死者を俗人から僧侶へと出家させてあの世へと旅立たせることです。僧侶になることで、あの世では極楽浄土へ行くことになります。逆修も、同じく葬儀をして俗人から僧侶になる行為です。大政所も生きて僧侶になったのです。

 想像の域を出ませんが、大政所が逆修をした天正15年(1587)6月21日に、高野山上に大政所のための剃髪寺が建立され、大政所が没した後に、青巌寺と名を改めたのではないかと考えます。秀吉は、本当にお母さん思いであったことが偲ばれます。

 青巌寺は、大政所の供養のためだけの寺院ではなく、豊臣家一族の菩提寺であったことが考えられます。青巌寺があった場所は現在の金剛峯寺が建っている地点でした。現在の金剛峯寺の建物は江戸時代後期のものですが、その形や大きさは秀吉が建立した時のままだとされています(下記写真)。


 今の金剛峯寺の中の一室に、「柳の間」という八畳敷きほどの小部屋がありますが、その部屋は秀吉の甥の豊臣秀次が切腹をしたところとされています。秀次は、高野山における豊臣家の菩提寺で最期を迎えたことが分ります。

⑧天正期五輪塔(銘文不読、写真なし)
 銘文は「天正」と年号のみ解読されます。他にも文字が確認されますが読めません。中世末頃の秀吉の時代に造立されたものと推測されます。砂岩製です。地輪のみの残欠品で、上部に別物の江戸時代の石仏が置かれています。

 年号から、秀吉が生きていた時代の石塔には間違いありませんが、詳細は未詳です。この石塔については、引き続き調査をして銘文を解読したいと思います。

⑨秀吉の養女豪姫の五輪塔


 砂岩製です。高さ180センチ。銘文は、「前大相国秀吉公御養立、息女、樹正院殿命室寿光、逆修、慶長廿年卯月十五日」とあります。「樹正院殿命室寿光」とは、「前大相国秀吉公御養立、息女」とありますように、秀吉の養女の豪姫のことです。豪姫が慶長20年(1615)4月15日に逆修をして、造立した石塔です。

 豪姫は前田利家・まつ夫妻の四女でしたが、2歳の時に秀吉・ねね夫妻の養女となりました。豪姫は成人して、宇喜多秀家と結婚します。2人の夫婦仲は良かったとされています。ところが、宇喜多秀家は、関ヶ原合戦の時に西軍側について東軍の徳川家康に負けました。秀家は八丈島へ流罪となります。豪姫は、養母であるねね(高台院)に仕えます。

 その後に豪姫は洗礼を受けてキリシタンとなり、実家である前田家に帰ります。前田家はキリシタンに対して寛容でした。そのことにより、豪姫は前田家へ里帰りしたものと思われます。

 注目されることが、キリシタンの豪姫が高野山の豊臣家墓所に石塔を造立したという事実です。豪姫に高野山への石塔の造立を勧めたのは、実母であるまつではないかと考えます。まつは、夫の利家の没後に夫とまつ自身の逆修の石塔を慶長4年(1599)に高野山奥之院に造立しています。また、我が子の利長のために、高野山奥之院で「三番石塔」と別称される3番目に大きい石塔を造立するよう前田家を継いだ利常に勧めたのも、まつでした。

 おそらく豪姫は、キリシタンでありながら実母のまつの勧めから逆修をして、戒名を得て高野山奥之院の豊臣家墓所へ自身の石塔を造立したものと考えます。豪姫はキリスト教と仏教の2つの信仰を持っていたことが分ります。

 次に指摘したいことは、銘文にある「慶長廿年卯月十五日」です。この日は、豪姫が逆修をした時と考えますが、この時は大坂城が落城する大坂夏の陣の直前です。このことも、推測の域を出ませんが、豪姫は豊臣家の滅亡を察して高野山へ石塔の造立を思い立ったのではないかと考えます。
 銘文に「前大相国秀吉公御養立、息女」と刻したのは、豪姫自身が豊臣家の一族である証をしたものです。豪姫は逆修をして、豊臣家との区切りをつけたのではないかと考えますが、いかがでしょうか。豪姫は逆修をしてから、19年後の寛永11年(1634)に没します。享年61歳でした。

⑩秀吉の長男鶴松の五輪塔


 砂岩製です。高さ176.8センチ。銘文は、「天正廿秊、浅野弾正、玉巌麟公神童、少輔造之、二月時正」とあります。「玉巌麟公神童」とは、秀吉の長男の豊臣鶴松のことです。

 鶴松は、天正17年(1589)5月に生まれて、同年19年(1591)8月5日に僅か3歳で没します。銘文にある「時正」とは、彼岸の中日を示す言葉です。天正20年(1592)2月時正とは、同年の春の彼岸中日のことです。

 この日は、鶴松が没して初めての彼岸中日となります。彼岸とは、仏教用語で理想の境地をいいます。現世を此岸とし、彼岸は煩悩を脱した涅槃の境地とされています。まさに、鶴松の成仏を願って造立された石塔だと考えられます。

 問題は造立者の「浅野弾正少輔」です。この人物は、戦国武将の浅野長政のことです。長政は、豊臣政権の五奉行の一人として活躍します。なぜ、長政が鶴松の供養のために高野山に石塔を造立したのか、その理由は不明です。

 考えられることは、秀吉の命により鶴松の石塔を長政が造立したのではないか、ということです。銘文には「浅野弾正少輔造之」とありますが、長政は鶴松の石塔造立の奉行として、このように名を刻したとも考えられます。

 また、注目されることが3歳の子供のための石塔の造立の事実です。中世社会におきましては、「7歳までは神のうち」と言い、幼い子供の石塔を造立することはほとんどありませんでした。これも、いかに秀吉が鶴松を愛していたのか、そのことを裏付けるものかと考えます。秀吉の思いを今に伝える石塔だと考えます。

⑪秀吉の正室ねねの五輪塔


 砂岩製です。高さ167.8センチ。銘文は、「天正十七己丑、御上臈、逆修、七月初三日」とあります。御上臈(格式の高い家の女性)が、天正17年(1589)7月3日に、自身の逆修をして造立した石塔です。

 問題は御上臈が誰なのか、ということになります。これまでは、秀吉の側室の淀殿ではないかと言われていました。

 このことを検証しますと、側室の淀殿ではなくて正室のねねであったと推測します。なぜなら、淀殿が鶴松を産んだのが天正17年(1589)5月27日で、石塔には同年7月3日と刻されていて、その間わずか35日しかないことが分ります。鶴松を産んだ淀殿がひと月ほどで逆修をするでしょうか。ようやく、秀吉の子を産んだ淀殿の人生はこれからだったはずです。そのような人物が逆修をするとは、とても考えられません。我が子の将来を思うと、自身の葬儀のことなどに構っていられない、と思います。

 そうすると、この御上臈とは誰かと言いますと、私は秀吉の正室ねねではないかと推測する訳です。最近の研究で、ねねと淀殿は仲が良く、豊臣家の繁栄をお互いに願っていたことが指摘されています。これも推測の域を出ませんが、待望の秀吉の長男が誕生したことから、正室のねねは安堵したのではないでしょうか。自身の役割が長男鶴松の誕生により終わったと、ねねは思ったのではないでしょうか。

 だから、ねねは逆修をし、高野山奥之院の豊臣家墓所に石塔を造立したのではないでしょうか。以上のように私は推測するのです。

 豊臣家墓所に現存する石塔は以上ですが、もう少し同墓所の石塔について、古絵図資料をもとに、さらに考察を深めたいと思います。