特別企画

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高野山大学総合学術機構課長 木下浩良氏「高野山奥之院の『豊臣家墓所』について」

2021.02.06

 高野山奥之院にある豊臣家墓所の11基の石塔について述べました。その紹介した順に、供養された被供養者と、その石塔を建てた造立者をまとめますと次のようになります。まず被供養者を挙げて、造立者をカッコの中に入れました。

①豊臣秀吉(豊公会)
②被供養者・造立者共に未詳
③秀吉の姉とも(秀吉の姉とも)
④法性院殿□□得授大姉(浅野清兵衛)
⑤豊臣秀長の妻(豊臣秀長の妻)
⑥豊臣秀長(豊臣秀長の妻)
⑦秀吉の母大政所(秀吉の母大政所)
⑧被供養者・造立者共に未詳
⑨秀吉の養女豪姫(秀吉の養女豪姫)
⑩秀吉の長男鶴松(浅野長政)
⑪秀吉の正室ねね(秀吉の正室ねね)

 11基中、2基は不明で他の9基は在銘品ですが、②は豊臣家の一族ではなくて、後に紛れ込んでしまった石塔と考えられることは、前稿で述べたとおりです。

 そうしますと、豊臣家一族の石塔としては①③⑤⑥⑦⑨⑩⑪の8基で、このうち、①は昭和14年(1939)に造立された後世のものですから、実際に秀吉の時代の前後に建てられた石塔は7基になります。

 その7基を検証しますと、③⑤⑦⑨⑪の5基が、造立者である女性が自身のために造立した石塔です。度々ご紹介したとおり、これら5基の女性の石塔は生前葬の「逆修」をして造立をしたものです。そうなると、なぜ、昔の人は逆修をしたのか、疑問になります。

 逆修が流行していたことには、その訳がありました。葬式をあげると、その功徳は七等分されて、亡くなった人に七分の一が得られ、残りの七分の六の功徳は葬式をあげた人に与えられると信じられていました。それで、生前に自分自身の葬式をあげると、七分の七の全ての功徳が得ることになります。これを、「七分全得」といいました。まさに、逆修をする目的はそのことにあったのです。

 また、古の人たちが逆修をした理由として、「擬死再生」があったことも指摘されます。これはどういうことかといいますと、いったん死んで生まれ変わることです。一度死んだことにより、それまでの罪や穢れが払拭されて、魂と肉体が浄化され、新たに生まれ変わるという考え方です。逆修をした人たちの本心は、実はこのことにあったことが考えられます。例えば、平安時代後期の武将の平清盛も生死に関わる病になりましたが、その中で出家した後に癒されたとされています。

 おそらく、清盛は単なる出家ではなくて、逆修をしたものと考えられます。「病は気から」という言葉がありますが、逆修をしたことにより清盛は元気になったとも推察されます。戦国武将の武田晴信も出家して信玄と称しましたが、この出家も逆修をして出家したものと考えます。出家して、より一層の戦を繰り広げた信玄でした。一度死んだことにより、開き直って後の人生を謳歌したのでは、というのが私の推測です。

 逆修をした理由は分かりましたが、そこでまた疑問が出てきます。ではなぜ、女性による石塔の造立がこのように目立つのでしょうか。そのことを考えるヒントは、高野山の信仰に求めることができます。高野山は明治の初めまで女人の入山を拒んだ、女人禁制の霊山でした。

 明治政府は欧米諸国の近代化に追いつくため、それまでの日本人の信仰心までなし崩しにして、全国の女人禁制の神社仏閣に対して、女人の参詣を勝手とすべしとの太政官布告を明治5年(1872)に発布したのでした。

 空海がいらっしゃる高野山は、女性の入山を拒んだ聖地でしたが、その反面、女性にとっては憧れの聖地であったのです。生きては高野山へ入山できない女性も、石塔の造立はできたのです。

 奥之院の石塔を調べると、男性よりは女性の石塔の造立が盛んに行なわれた傾向が見られます。高野山は、生きた女性の入山を拒みましたが、亡くなってからの遺髪や納骨は差別なく平等に受け入れたのでした。

 この女人禁制の問題は日本人の信仰に関わるもので、ジェンダーからの視点とは別問題だと思っています。このことは、機会があったら『月刊石材』連載でも触れてみたいと思います。

 今回は豊臣家墓所という特権階級の墓所の石塔を見てきましたが、逆修や女人による石塔造立のことなど、同様なケースはこの当時の庶民まで同じ意識であったことが指摘されます。つくづく、日本人とは信仰深くて奥ゆかしい人たちであったと思います。

 この豊臣家墓所ですが、江戸時代の中頃の宝永4年(1707)に描かれた「奥之院絵図」にも見られます(下記図)。

 すべての石塔が五輪塔で描かれて、それぞれの五輪塔には名前が付されています。横一列に、「大納言北方、大光院殿前亜相、太閤秀吉公、青巌貞松、前関白秀次公」と並び、その右側には「石田治部少輔、三位法師、御上臈」とまとまって描かれています。この豊臣家墓所は、石塔が建てられて100年程後の様子です。

 次に下記の図をご覧下さい。

 これも奥之院の豊臣家墓所を描いたものですが、これは江戸時代末期の天保9年(1838)に成立した『紀伊国名所図会』に見られるものです。この2つの絵図から分かることは、江戸時代を通じて豊臣家墓所は変化することなく、同じ様子であったということです。

 しかも、注目されることが、現在では確認できない豊臣秀次と石田三成の2つの石塔も豊臣家墓所にあったことを伝えていることです。

 秀次は秀吉の勘気に触れて高野山の青巌寺で切腹します。これまでは、高野山の塔頭寺院の光台院に葬られたとされていました。実際に同院には秀次の宝篋印塔と伝承されている石塔が存在しますが、奥之院の豊臣家墓所にも五輪塔が造立されて大事に供養されたことがうかがわれるのです。石田三成の石塔も、高野山奥之院には別の場所に存在しますが、豊臣家墓所内にもあったことが分かります。

 この2点の古絵図により、現在の石塔の並びとは違っていたことも指摘されます。秀吉の石塔は昭和14年(1939)に造立されていますが、その頃の豊臣家墓所の石塔群は倒壊していて、荒れていたとされています。秀吉の石塔が建てられた機会に、豊臣家墓所は整備されて現在の姿になったのでした。それにしても、秀次と三成の石塔はどこにいったのでしょうか。地中に埋まってしまったのか、破損して付近へ廃棄されたのか、将来の再発見に期待します。

 また、秀吉の石塔もどこにいったのでしょうか。私は、この古絵図が描く秀吉の石塔は豪姫の石塔が秀吉の石塔と誤認されたものではないかと推測します。なぜなら、紹介した2つの絵図には、豪姫の石塔が描かれてないからです。豪姫の五輪塔の銘文には、「前大相国秀吉公……」と銘文があることから、これこそが秀吉の石塔だとされたのではと推定します。

 秀吉は死後、豊国大明神という神様になりました。京都の豊国神社において、秀吉の遺体は神様として祀られたのです。要は仏式の法名(戒名)を与えられることはなかった訳で、石塔を造立することはなかったのです。その点は、徳川家康も同じで東照神君という神様となり久能山に葬られた後に日光で東照宮というお宮で祀られています。その後、全国の大名はこぞって東照宮を建立しました。高野山でも東照宮が建てられましたが、仏式の石塔は建てられませんでした。

 大坂夏の陣の後に、豊国神社は破壊されて、秀吉の遺体もあばかれました。その後に、北政所(ねね)は秀吉の遺体を仏式に葬儀を行なったとされています。京都の方広寺に造立された秀吉の祥月命日の元和元年(1615)8月18日を刻した五輪塔が、秀吉の供養のための五輪塔とされています。現在は、豊国神社の境内の宝物館裏に馬塚として残っています。

 現在、秀吉の五輪塔は豊国神社があった京都の阿弥陀ケ峰の山頂にありますが、これは明治30年(1897)に建築家の伊東忠太の設計により造立されたものです。豊国神社は、明治になりようやく復興したのでした。高野山でも、秀吉の石塔は、昭和14年(1939)に至るまで造立されなかったことが分かります。 

 なお、前回の鶴松の五輪塔の造立者が浅野長政である理由を不明としましたが、その後、調べまして、長政が鶴松の傅役(お守り役、教育係)であったことが分かりました。長政が、悔やんでも悔やみ尽くせない、慚愧に堪えない思いで造立した五輪塔であったことを指摘したいと思います。