特別企画
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高野山大学総合学術機構課長 木下浩良氏「高野山奥之院の『豊臣家墓所』について」
次は古絵図にあった豊臣秀次と石田三成の石塔について紹介したいと思います。
高野山奥之院の豊臣家墓所の中に、かつては豊臣秀次(1568~1595)と石田三成(1560~1600)の石塔があったことをすでに紹介しました。その根拠としたのが、宝永4年(1707)の「奥之院絵図」(図1)と、天保9年(1838)に成立した「紀伊国名所図会」(図2)に描かれた豊臣家墓所の五輪塔に付された「前関白秀次公」と「石田治部少輔」の書き込みでした。
図1
図2
現在の奥之院の豊臣家墓所では、秀次・三成の石塔は見出せません。前述したように、この歴史上の2人の人物の石塔は、破損をして付近へ廃棄されたか、地中に埋まってしまったのか、いずれは、再発見の可能性もあるかと思います。
この2人の石塔ですが、高野山には豊臣家墓所とは別の場所にも建っています。そういいますと、豊臣家墓所からそれらの石塔が移動した可能性が挙げられるでしょうが、それはないものと考えます。なぜなら、豊臣家墓所の石塔とは別に、秀次・三成の石塔は高野山の古絵図には記載されているからです。秀次・三成の石塔は複数の記載が見られる訳です。昔は、機会があるごとに石塔は造立されていたことが指摘されます。
石塔は、一度建てて、それで終わりではありませんでした。一周忌や三回忌などに、そのつど毎に建てられたことも分かっています。被供養者は同じでも、造立者が違う場合は、それぞれに石塔が造立されたケースもありました。まずは、豊臣秀次の石塔から紹介します。
①豊臣秀次の石塔
秀次は秀吉の甥で、秀吉の長男の鶴松の死後に秀吉の養子となり、二代目の関白となります。ところが、秀吉に次男の秀頼が生まれると、秀吉は秀次を高野山へ追放して、自刃を命じたのでした。
高野山では次のように伝わっています。秀次は、高野山の豊臣家の菩提寺である青巌寺で剃髪して、道意禅門と名乗りました。秀吉は3,000人もの兵を出して、秀次がいる青巌寺を囲みました。高野山の僧侶たちは秀次の命乞いをしましたが、許されませんでした。その後に、秀次は切腹をします。秀次の首級は秀吉のもとへ送られ、遺骸は高野山の塔頭寺院の光台院の裏山に葬られたとされています。
その秀次の石塔とされるのが上記の宝篋印塔です。伝承の通りに、光台院の裏山にあります。砂岩製の宝篋印塔です。相輪部分が欠落して、現状は五輪塔の風空輪が載っています。総高40センチです。銘文はありませんが、戦国時代から安土桃山時代の典型的な形状の宝篋印塔で、基礎の格狭間は同時代の形状となっています。
従来の説では罪人としての秀次のイメージが強く、供養のための石塔も光台院に密かに造立された、という感がありました。しかし、その一方で奥之院の豊臣家墓所にも大事に祀られたことが、今回同墓所について調べる中で分かってきました。そうなると、新たな秀次像が出てきたようにも思われます。秀次も、他の豊臣一族と同様に五輪塔が造立されて、奥之院で供養されたのです。この秀次の奥之院における石塔については、将来の発見に期待します。
②石田三成の石塔
石田三成は、いうまでもなく秀吉に若年より仕え、重用されて奉行として手腕を発揮した人物です。関ヶ原の戦いで敗北して、京都四条河原にて斬首されます。
高野山の三成の石塔は五輪塔です。砂岩製で、総高は270センチ。銘文は地輪に次のようにあります。「天正十八庚寅、宗應、逆修、三月十八日」。「宗應」とは、石田三成の法名なのです。
この三成の石塔ですが、銘文にある天正18年(1590)までの高野山の石塔の中では、最大の大きさです。三成の生年は永禄3年(1560)とされています。したがって、高野山に五輪塔を造立した時の三成の年齢は30歳となります。何と、三成は若くして逆修供養をしたことになります。
しかも、天正18年頃の三成の所領は四万石ほどしかありませんでした。財政的な面だけでなく、30歳という壮年期にもかかわらず、これほどの大型の五輪塔を造立したことは、三成が弘法大師信仰に厚かった一面を今に伝えています。
さらに、同五輪塔で注目されるのが、原石から石材を切り出す際に残る矢穴の痕が地輪と火輪部分に見られることです。このことは大変貴重で、高野山の石塔においては他に類例を見ません。おそらく、このような巨大石塔を造立するケースが、それまでに無かったことを今に伝えているものと考えます。
その矢穴は正面からは見られない工夫がなされています。地輪部分は背面に見られ、火輪部分には側面に見られます。これは、矢穴の痕を削ってしまっては石塔自体の大きさが小さくなることに対する思いがあったものと推定します。
なお、奥之院の御廟に向かって右横に、三成は亡き母の供養のために経蔵を建立して、高麗版一切経を納めています。
天正期の石塔としては天正12年(1584)筒井順慶の五輪塔、天正14年(1586)蜂須賀正勝の宝篋印塔が挙げられますが、その形態は前記の天正期のものより小型の造りとなっています。文禄期のものとしては文禄元年(1592)浅井長政と文禄3年(1594)島津久保の宝篋印塔と、同年の多賀谷重経の無縫塔がありますが、それらと同様です。
高野山では、安土桃山時代になると総高1メートル50センチ以上もの大きさの石塔が奥之院において複数出現します。それが、吉川元春・元長親子五輪塔、河野通直・同母五輪塔、小早川隆景・同夫人五輪塔(下記写真)、石田三成五輪塔です。まさに、豊臣秀吉による天下統一の過程で、江戸時代初期の元和・寛永期に出現する巨大石塔の胎動ともいえる動きが、高野山奥之院において見られるのです。
高野山には武田信玄・武田勝頼・織田信長等の石塔もありますが、明らかに江戸時代に造立されたものですので、本稿では触れません。高野山における豊臣家墓所とそれに関連する石塔については、以上です。
【著者プロフィール】
木下浩良(きのした・ひろよし)
1960年、福岡県柳川市生まれ。高野山大学人文学科国史学専攻卒業。高野山大学総合学術機構(図書館・密教文化研究所)課長、奥之院大名墓調査会副委員長。密教文化研究所受託研究員、東京大学史料編纂所共同研究員、学校法人高野山学園評議員、日本山岳修験学会評議員。著書に『はじめての高野山町石道入門』(セルバ出版)、『戦国武将と高野山奥之院』(朱鷺書房)、『はじめての高野山奥之院石塔入門』(セルバ出版)、『戦国武将真田一族と高野山』(セルバ出版)。『高野山の歴史と文化-弘法大師信仰の諸相-』(高野山出版社)。
※『月刊石材』2020年10月号・11月号・12月号・2021年1月号より転載
※「高野山大学 木下先生と巡る 【奥の院】 新春特番!」もご覧ください!