墓を訪ねて三千里
墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。
手塚治虫~生命の尊厳を描き続けたマンガの神様
墓参は線香代百円入用。
墓域正面右側は『陽だまりの樹』で描かれた幕末の蘭方医、
曾祖父・手塚良仙の墓
近年「クールジャパン(Cool Japan)」と呼称され海外に輸出されている日本のポップカルチャー。その筆頭格であるマンガ&アニメを日本に普及させた手塚治虫は、60年という、けっして長くない生涯に700作品、17万ページに及ぶマンガを描き残した。手塚は「マンガは子どもが読むもの」という偏見を変え、冒険活劇だけでなく、心の闇を描いたサスペンス、文明批判や生命倫理をテーマにした作品なども数多く手がけた。
1928年に大阪で生まれ、青春時代を兵庫の宝塚で過ごす。幼い頃から趣味で漫画を描いていたが、中学時代に太平洋戦争が勃発し、軍人から「この非常時にマンガを描きやがって!」と暴行を受けた。17歳の時には大阪大空襲に遭遇し、降り注ぐ焼夷弾の中を逃げ惑い九死に一生を得る。
自伝的作品『紙の砦』では、終戦を知った青年主人公が「ウワーハハ! ぼくは生きてるぞ、生き延びたんだーっ! これからはマンガが描けるぞーっ!」と嬉し涙に泣き濡れている。マンガを描きたくても禁止されていた時代、いつ自分が死ぬか判らなかった時代、それらを体験したことが原動力となって、怒涛のように作品が生み出されていった。
終戦翌年に早くも新聞4コマ漫画でプロデビューし、19歳で戦後ストーリー漫画の原点となった『新宝島』を発表。同作は映画的手法を駆使したコマ割りや、スピーディな場面構成で「絵が動いている」と読者を驚嘆させベストセラーとなり、藤子不二雄を始め、ちばてつや、中沢啓治、石ノ森章太郎、望月三起也、楳図かずおなど、多くの読者が漫画家を志すきっかけとなった。さいとう・たかを(『ゴルゴ13』)も「紙で映画が作れる!」と興奮したという。
宮崎駿いわく、「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです」。
続けて手塚は文化的に低く見られていたマンガの地位を向上させるべく、ゲーテ『ファウスト』、ドストエフスキー『罪と罰』、シェイクスピア『ベニスの商人』など、名作文学の漫画化に積極的に取り組んだ。一方、悲惨な戦争体験から生命の尊さを学んだ手塚は、阪大医学部に進んでおり、『鉄腕アトム』の連載開始と平行して医師の国家試験に合格している(25歳)。
1963年、日本初の連続TVアニメ『鉄腕アトム』の放送を実現させ、2年後にはこれまた日本初となる〝カラー〟の連続TVアニメ『ジャングル大帝』を制作。『リボンの騎士』『マグマ大使』『どろろ』『海のトリトン』『ブラックジャック』と、休みなく作品を発表し続けた手塚の歩みを止めたのは胃癌だった。
1989年2月9日、60年の人生を終える。他界前は昏睡状態から意識が戻る度に「鉛筆をくれ」と家族に頼み、最期の言葉も「頼むから仕事をさせてくれ」だった。
菩提寺の総禅寺は都電荒川線新庚申塚駅の徒歩圏内。墓石の傍らにはアトム、レオ、ブラック・ジャックなど手塚キャラが描かれた墓誌が寄り添っている。
墓誌に刻まれた、火の鳥、アトム、リボンの騎士、B・ジャック、
手塚先生、ジャングル大帝、お茶の水博士、ヒゲオヤジ!
※『月刊石材』2013年9月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社