墓を訪ねて三千里
墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。
日本美術を守った日本人の大恩人~アーネスト・フェノロサ
フェノロサの墓。三井寺本堂からしばらく山林の中を歩いた
法明院の庭園奥に眠る。付近からは琵琶湖が見える
「日本では全ての国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、労働者も山水を愛で花を摘む」
米国生まれのフェノロサは日本美術を物珍しさで好んだのではなく、本気で愛していた。能楽を習い、茶室に滞在し、改宗して仏教徒にまでなり、墓石は梵字が刻まれた五輪塔だ。日本美術界の未来まで考え、現・東京芸大創立のために奔走した。フェノロサはハーバード大の哲学科を首席で卒業した後、東大の求人情報に興味を持ち、1878年に25歳で日本の土を踏んだ。
明治維新後の日本は、盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。写楽、北斎、歌麿の作品に日本人は芸術的価値を見出さず、狩野派、土佐派といったかつての日本画壇の流派は世間から忘れ去られていた。
特に悲惨な境遇に置かれていたのが仏教美術だ。廃仏毀釈の嵐を経て、全国に10万以上あった寺は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われていた。役人は出世のために廃寺の数を競い、奈良の名刹・興福寺でさえ無住の荒れ寺となり、薩摩では一時期“全ての寺”が潰された。
フェノロサは日本人が自国の文化を大切にしないことに衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。作品がいかに素晴らしいかを事あるごとに熱弁した。
フェノロサは文部省に掛け合って27歳で美術取調委員となり、まだ学生だった岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始する。2人は数度にわたって60ヵ所以上の社寺、約450品目の美術品を調査し、法隆寺・夢殿では数世紀も“絶対秘仏”とされていた等身大の聖徳太子像『救世観音像』の厨子の開扉をおこなった。その美しさに驚嘆したフェノロサは、翌年にキリスト教を捨て仏教徒となる(現在、春と秋に救世観音が特別公開されるのはフェノロサのおかげ)。
この当時、かつて天才絵師と讃えられた狩野芳崖は貧困のどん底で、陶器の下絵塗りで生計を立てていた。日本画の復興を決意したフェノロサは芳崖の自宅を訪ね「今後、あなたが描いた絵は必ず全て買い取ります。迷惑でなければ、絵に専念できる家も提供させて下さい」「あなたはもう一度筆をとるべきです。あなたほど優れた才能を持っている方が絵を描かないのは国家の悲劇です」と力説した。
感動した芳崖は、死の4日前に『悲母観音』を完成させ、同作は後に国宝となった。フェノロサは長男を“カノー”と名付ける。
1897年、約20年にわたり日本美術保護に注いだ熱意が実を結ぶ。政府がこれまでのフェノロサの調査を元にして、文化財を「国宝」に指定し保護しようと“古社寺保存法”を制定したのだ。
1908年、ロンドンの国際美術会議に出席し、滞在中に心臓発作で急死する。享年55歳。戒名は「玄智院明徹諦信居士」。
生前「墓は法明院に」と願っており、翌年、遺骨が滋賀の三井寺・法明院に埋葬された。同院は彼を仏門に導いた和尚が住職を務め、今もフェノロサ愛用の地球儀、望遠鏡、蓄音機を大切に保存している。
岡倉天心の墓。フェノロサの右腕となり、現・東京芸大の初代校長に就任。
墓は豊島区の染井霊園。墓の上は建立時から草で覆われている
※『月刊石材』2014年2月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社