墓を訪ねて三千里
墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ ~墓が語る兄弟愛
絵は彼にとって「愛を訴える方法」だった。
その想いに応え、世界各国のゴッホ・ファンがこの地を訪れている
墓巡礼を続けていると、予想もしなかった衝撃を受けることがある。ゴッホの墓参が、まさにそうだった。
僕が初めてゴッホを巡礼したのは1989年。この巡礼には並々ならぬ気合いが入っていた。ゴッホは生前に作品がたった一枚しか売れず(しかも買ってくれたのは友人の姉)、世の中に悲嘆して37歳で自死。どうしても墓前に行って「あなたの人生は無駄ではなかった、現にこうやって感謝を伝える為に、遠い日本の大阪から、飛行機に乗って、鉄道を乗り継いで、歩いてこの丘を登ってきたファンがいる」と身体を見せつけたかった。
彼は絵筆を握る理由を、「星を描くことで希望を、輝く夕陽を描くことでひたむきな魂を表現したい」「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを生み出したい」「私は絵画を通じて、人々を救い、救われたかった」と語っていた。
作品自体が素晴らしいのはもちろん、僕は彼の芸術家としての志に深く感動していた。
オーヴェール駅から村人に道を尋ねながら共同墓地にたどり着くと、壁沿いに彼は眠っていた。ひとしきり熱い想いを伝えた後、隣りの墓を見た。弟テオのものだった!
80年代はインターネット普及前で、事前に墓の写真を見る機会がなく、テオの墓があることを知らなかった。画商の彼が兄の生活費をずっと援助していた話は有名だ。テオに手を合わせかけて、没年を見て電気が走った。彼は兄が他界した翌年に亡くなっていた。まだ33歳の若さだ。
ゴッホの画家としての活動期間はわずか10年。その中で1,600点の水彩・素描と八百点以上の油彩画という膨大な作品を残した。テオがいなければ兄は絵の具も買えなかったわけで、いま僕らがゴッホ芸術に触れることができるのは、200%テオのおかげだ。
当時の絵の具は高いのに、ゴッホはカンバスに直接塗りつけて地図模型並に盛り上げた。貧乏画家の描き方ではない。それでもテオはひたすら兄の才能を信じて仕送りを続け、自身の子に〝ヴィンセント〟と名付けるほど敬愛していた。
ゴッホは自分の腹を撃ったが即死できず2日間苦しみ抜いた。駆けつけた弟に、「泣かないでおくれ。僕は皆のために良かれと思ってやったんだ」と慰めた。ポケットの中には弟宛の最後の手紙が入っていた。「君は単なる画商なんてものではない。僕を介して君もまた、どんな悲惨にあっても、絵の制作そのものに加わってきたのだ」。
兄の死はテオを激しく打ちのめし、3ヵ月で精神が崩壊、弟の生命は6ヵ月しかもたなかった。
その後、2006年、2009年と彼らの墓前に立ってきたが、僕はテオと語り合った時間の方が長かったかも知れない。兄弟の死後、テオの妻ヨハンナは2人の墓を隣接させて聖書の次の言葉を捧げた―。
「二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき」
ツタで結ばれ、ひとつになったゴッホ兄弟の墓。
ツタの花言葉は「死んでも離れない」
※『月刊石材』2012年2月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社