墓を訪ねて三千里
墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。
坂本龍馬 ~「日本を今一度、洗濯いたし申し候」
墓石の字は木戸孝允のもの(左が龍馬、右が中岡)。
同墓地には明治維新に尽くした1,413名が眠っている
これまで四半世紀にわたって国内の偉人1,000人以上を巡礼してきた。その中で、もっとも多くの墓参者で溢れかえっていたのは京都・霊山護国神社の坂本龍馬だ。ひっきりなしに巡礼者が訪れ、人の波が途切れることがない。
大河『龍馬伝』がオンエアされた時は、ゴールデンウィークに墓参者の列が墓地の外まで続いていたという。こうも日本社会に閉塞感が漂い、政治家が民衆の期待に応えられないでいると、龍馬のように突破力のある人物に人々は心惹かれるのだろう。
龍馬は1835年に土佐藩の下級藩士の家に生まれた。18歳の時に江戸へ出て剣を学び、この時に黒船来航と遭遇。帰郷後に武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟し、外国人排斥の攘夷運動に係わっていくが、脱藩して勝海舟など様々な人物と交流する中で、無闇に外国を排するのではなく、むしろ西洋の進んだ技術を積極的に導入することで国力を高め、海外に対抗しようと考えるようになる。
幕府の古い体制を打ち倒すには、諸藩の中で最強の軍隊を持つ薩摩藩と、反幕府の先陣を切り優れた人材(吉田松陰、高杉晋作等)を輩出する長州藩の連合が不可欠と龍馬は考えていたが、両者は“禁門の変”で武力衝突をし犬猿の仲。龍馬は経済を通して薩摩藩と長州藩の橋渡しとなるべく、日本で最初の会社組織、貿易商社・亀山社中(後の海援隊)を長崎で設立し海運業に励む。
長州藩は幕府との対決を前に最新鋭の武器を欲していたが、他藩には長州への武器売却禁止令が出ており購入は不可能。そこで龍馬は西郷に働きかけ、 長州が武器を購入する際に薩摩の名義を貸す代わりに、飢饉で苦しむ薩摩に長州が米を送るという密約を提案した。
作戦は大成功。薩摩が幕命に反してまで名義を貸してくれたことで、長州側のわだかまりが消えていった。そして1866年、正月明けの京都で薩摩・西郷隆盛と長州・桂小五郎のトップ会談が始まる。「薩長の和解はこの日本国を救うためであり、一藩の私情を挟んではいけない」との龍馬の一喝もあり、ついに薩長同盟が締結された。その後、龍馬は幕府から朝廷へ平和的に政権を移譲させる大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考え、土佐藩の建白を受けて将軍慶喜は大政奉還を受け入れた。
幕府側には薩長を結んだ龍馬を恨む者も多く、寺田屋で治安組織に襲撃され間一髪で脱出するなどしたが、隠れ家の近江屋を踏み込まれ(犯人は見廻組説が有力)、同志の中岡慎太郎と共に暗殺された。
過去にも日本史を変えた英傑はいるが、大名の家に生れた信長や源氏の名家の頼朝とは、スタート地点が全然違う。江戸から見れば遠い片田舎の土佐に生まれ、しかも脱藩者で権力の後ろ盾が何もない30歳そこそこの男が、文字通り天下国家を動かしていく。これにロマンを感じないわけがない!
龍馬の墓前には、ファンのメッセージが書かれた石板がズラリと並んでいる。※2019年現在、石板はありません。
愛妻おりょうの墓は横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)にある。
墓前には龍馬が薩長同盟を西郷に訴えるフィギュアがあった
※『月刊石材』2012年3月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社