墓を訪ねて三千里

墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。

民衆を救うため命がけの蜂起! ~日本一パワフルなおやっさん・大塩平八郎

2020.11.11

日本

大塩平八郎左が平八郎で“中斎”は号。右は養子格之助。
明治まで“大罪人”大塩の墓を造ることは禁じられていた

 

 震災の復興よりも政治闘争に明け暮れ、マニフェストとは正反対のことに血道をあげる政治家たち。国民の怒りは灼熱のマグマとなり噴火寸前だ。社会を変えたいと思うとき、現代は選挙という形で意思表示が出来るけど、江戸時代は幕府があまりに強大で、庶民は世を変えたくても為す術がなかった…大塩平八郎が蜂起するまでは!

 江戸後期(1793年)に大阪で生まれた大塩は、先祖が家康から直々に愛用の弓を賜った旗本。十代前半で奉行所に出仕、25歳で正式に大阪町奉行所与力となった。“与力”は今で言う警察機構の中堅。大塩は裏社会のシンジケートを壊滅させ、没収した三千両(約2億円)を貧民への施し金とした。さらに複数の幕府高官による汚職事件の証拠を掴むが、圧力が加わり捜査は打ち切られてしまう。大塩は職を養子・格之助に譲って奉行所を去り、学問(陽明学)の道を究めていく。

 1833年から始まった“天保の大飢饉”は餓死者が30万人に達し、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となった。

 大塩は奉行所を訪れ「米問屋にはたっぷり米があるのに、豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えた。だが、町奉行は豪商から賄賂を貰い聞く耳を持たない。大阪の米価は六倍まで急騰し、民衆の窮状を見かねた大塩は、大切にしてきた5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた約600万両を1万人の貧民に配った。

 ときに大塩44歳。力ずくで豪商の米蔵を開けさせることを決心し、堺で鉄砲を買い付け、高槻藩からは大砲数門を借りた。蜂起日を1837年2月19日夕刻と定め、私塾『洗心洞』門下生(与力時代の仲間が中心)ら約30名の同志が連判状に名を連ねる。

 大塩の最終目標は有り余るほど大量の米を備蓄している「大阪城の米蔵」だ。ところが、決行日の未明に仲間2人が裏切り奉行所に計画を密告。大塩は予定を早め、午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した。大塩一党は豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していく。町衆も混じり300人の勢力になったが、午後になると大阪城から約2,000人の幕府軍が出陣、大塩らは二度の総攻撃を受けて鎮圧された。

 大塩父子は約40日間逃走したが、潜伏先を包囲され火薬を撒いて爆死した。この乱で処罰された者は実に750人。幕府は黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存し、門弟20人の遺骸と共に磔に処した。

 彼らの死は無駄ではなかった。つまり、幕政に不満を持つ人々に、それまでは考えもしなかった“幕府は刃向かえるもの”という選択肢を心に芽生えさせた。これは30年後の明治維新へと繋がっていく。

 墓の側に建つ『大塩の乱に殉じた人々の碑』は、大塩の墓の5倍ほどあり、後世の建立とはいえ墓からも“民衆第一”という思想が伝わってくる。

 

大塩平八郎大阪市北区成正寺の境内に建つ
『大塩の乱に殉じた人々の碑』。
写真右奥に墓


※『月刊石材』2012年7月号より転載

 

カジポンさん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。

 

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