墓を訪ねて三千里

墓マイラーであるカジポン・マルコ・残月さんによる世界墓巡礼のレポートです。

オーギュスト・ロダン ~“近代彫刻の父”の墓標は『考える人』

2020.11.11

海外

オーギュスト・ロダンロダンの墓。『考える人』の原型は足下が地獄。
あえてそこに眠るのは彼の意思なのか

 

「芸術家である前に人間であれ」(ロダン)。豊かな生命力と、力強い精神性を秘めた人物彫刻を多数生み出したロダン。ミケランジェロ以降の最大の彫刻家で、単に外見をモデルに似せるだけでなく、内面世界まで形にしようとした。

 1840年、パリ生まれ。子どもの頃から絵を描くのが好きで、14歳より工芸学校に通い始める。粘土を握る楽しさに開眼したロダンは、専門教育を受けるべく国立美術学校の入学を目指したが3度にわたって失敗。入学を断念し、建築装飾の職人となり独学で彫刻を学んだ。24歳で生涯の伴侶となるローズと出会い長男が誕生。同年、サロン(美術展)に出品するが落選し、以降13年間は世に出ることもなく黙々と作品を造り続けた。

 生活を切り詰め貯金し、35歳で念願のイタリア旅行を敢行。現地でルネサンス時代の作品が持つ強い存在感に衝撃を受ける。いわく「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」。

 ロダンは興奮を胸に等身大の男性像『青銅時代』を発表し、美術界の注目を集めるが、生き写しと感じるほどリアリティがあったために「生身の人間から直接石膏の型をとったのでは」とあらぬ中傷を受け、サロンでも落選した。怒ったロダンは、人間よりずっと大きな彫刻を制作して疑う者をねじ伏せ、誤解が解けたことでフランス全土に名声が広まった。

 40歳からライフワークとなる『地獄の門』の制作をスタート。この門はダンテの「神曲・地獄編」をモチーフにしており、高さ5.4メートル、幅3.9メートル、重さ7トンの超大作となる。何度も構想を練り直し、生みの苦しみの中でロダンの心を捉えたのが、19歳の美貌の女弟子カミーユ・クローデルだった。彼女は彫刻家として素晴らしい才能を持っており、ロダンは愛弟子との情愛にのめり込む。だが、ローズと別れることは出来ず、ドロドロの三角関係が15年も続く。

 最終的にロダンはローズを選び、カミーユは精神のバランスを崩し発狂してしまう。1889年、『地獄の門』で扉の上部から地獄の情景を見下ろしている男を単独作品『詩人』として発表。地獄の門にはカミーユや私生児の姿もあることから、“詩人”はロダン本人とも言われている。この像は後に鋳造した人物に『考える人』と名付けられた。

 1917年、長く内縁の妻だったローズに死期が迫り、ロダンは正式に彼女と結婚。その16日後にローズは世を去った。そして9ヵ月後にロダンも後を追うように他界する。享年77歳。

 ロダンの墓は没地ムードンのロダン邸(現ロダン美術館)にある。パリからは約40分。電車を乗り継ぎ、住宅街の中を迷いながらたどり着くと「休館日」の看板。ノーッ! 僕はインタホン越しにひたすら「シル・ブ・プレ(お願い)」「トンブ!トンブ!(墓)」と守衛さんに連呼し、10分後、涙声に折れた守衛さんが門を開けてくれた。

 無事に『考える人』の足下に眠るロダンに巡礼でき、ロダンにも守衛さんにも「メルシー!」と大感謝。

 

オーギュスト・ロダン東京の国立西洋美術館にある『地獄の門』。
186もの人体で埋め尽くされた驚愕の力作!


※『月刊石材』2012年8月号より転載

 

カジポンさん

カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。
歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、35年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計7,000万件のアクセス数。

 

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