特別企画

お墓や石について、さまざまな声をお届けします。

常に新しい感動を求めて石と向かい合う―彫刻家・画家 武藤順九

2020.11.11

「生命(いのち)」が作品の核にある

――作品のテーマとして最も大切にされているのはどんなことですか?
武藤 それはやっぱり「生命」です。彫刻でも絵でも、テーマは「生命」。最もシンプルで、なおかつぶれないものですし、「生命」が宿っていない作品は世のなかに発表できません。

なぜなら感動を伴わないからです。それもその作品にまずは作者自身が感動しなければ、他人が感動することなんてあり得ません。もちろん好き嫌いはありますが、つくった本人がゾクゾクする感動を得なければ、作品として世のなかには出せない。

――先生は常にゾクゾクと?
武藤 もちろん、その連続だね。その感動を一度でも味わうと、またそれを味わいたくて追い求める。だから〝美の女神”なんだよ(笑)。

それは素材である石でも同じで、ひと目見てゾクッとすることがありますね。でもそういうことは、やはり長い経験のなかで培われるものでしょうね。私がヨーロッパに渡ったのが1973年だから、もうすぐ半世紀。年の功かな(笑)。

――私、74年生まれです(笑)
武藤 そうか、ちょうど私が渡欧して間もなくキミが生まれたんだな(笑)。

私はイタリアの永久市民権も持っているので、日本人でありながらイタリア化、ヨーロッパ化するのが普通と考えられます。でもそうではなく、むしろ日本とか、イタリアとか、そういう国と国の水平レベルではなくて、それを超えた縦のレベルというか、「世界市民」みたいな感覚がとても必要だと思っています。私がテーマにする「生命」とか、自然、宇宙というものは、民族や宗教、政治、人種などを超え、人類共通の世界観ですから、そういうものがやはり作品の重要なキーワードになるでしょうね。

いままでバチカンやブッダガヤなど、世界中でいろいろな仕事をさせていただいたのも、やはり私の作品の一番根底の核には、すべての人たちが探し求める、平和や生命の尊厳というものがあるからだと思っています。それは私でいえば、「日本人」というアイデンティティを超えたところにあるものですね。

――でも、どこかに日本人的なものがあるのでしょうね?
武藤 それはあるだろうね。日本の文化を「抹香(まっこう)くさい」という人もいますし、そういうものをすべて取っ払おうと思っても、それはなかなかできませんよ。意識してなくても自然に出てきますね。自分の育った根っこだから、それはそれでいいでしょう。

でもカッコつけて「日本人」「日本文化」というのは、もう勝手にやりなさいと。そういうことをいわなくても、作品が自ずと語るようにならないとだめでしょうな。

作品「CIRCLE WIND(風の環)-PAX2005-」
(2006年、イタリア産大理石)

仏教発祥の地、インド・ブッダガヤのマハボディ大寺院(世界遺産)に永久設置



「アーティスト」は職業ではない。作品が評価されて得られる称号である

――美術の世界でも、イタリアと日本では違いますか?
武藤 違いますね。ヨーロッパ、特にイタリアは世界の文化の中心です。ローマの文明がそのほとんどの根底になっていますからね。そしてそこではアートという大きな家、箱のなかに、たまたま絵を描く人がいて、石を彫る人がいる。ミケランジェロはどちらもやりましたけど、そこにみんなが納まって、そのなかで競っているから厳しいわけです。

でも日本の場合には、その大きな家をさらに細かく部屋割りしてしまって、そもそもの「芸術」という大きな枠組みすらも見えにくくなっていますね。それは自分たちでそうしているんでしょうな。いってみれば、職人組合でしょうか。つまり、冒頭でも触れましたが、芸術を仕事にしているんです。

でも、アートというのは本来、仕事ではないんですよ。アーティストというのは、職業の名前ではありません。

私が石の彫刻を始めた頃にある工房に行くと、職人さんに「キミはいままで石を彫ったことがないらしいが、どんな職業をしてきたんだ?」と聞かれました。それで私が「アイ・アム・アーティスト」と答えると、彼は不思議そうな顔をして、「キミのいうアーティストは意味が違う。ぼくはキミの職業を聞いているんだ」と。つまり「いままでどうやって食ってきたのか?」と聞いてくるんです。そして、こう続けました。

「アーティストというのは、ぼくらが決めることだ。キミ自身で決めることではない。キミの作品を見た人が、キミがアーティストかどうかを決める。だからキミは自分のことをアーティストとはいえないんだ」

アーティストとは、他人からいただく名称なんです。それも自身の作品が評価されて得られる称号なんです。彼のこの言葉は、私にとってはカウンターパンチでしたね。

イタリアには、石の世界でも職人さんがいっぱいいますよ。それも世界有数の技量を持って、世界中で仕事をしています。ただ、彼らは技術者なんですね。だから「すばらしいものをつくっているのに、なぜキミたちはアーティストといわれないのか?」と聞くと、「つくっているものを見ればわかるだろう。オレは職人であり、アーティストではない」と。そのあたりの区別は、ヨーロッパでは非常にはっきりしていますね。でも日本では曖昧(あいまい)で、誰でもアーティストになってしまう。何にでもすぐに「アート」とつけたがるし、本人もすぐその気になっちゃうんだよな。

――本来はそういう厳しい環境のなかで認められなければいけないのでしょうね。
武藤 そうです。職人はまだ食べられますが、アーティストを志す人はとても厳しいですよ。でも、みんな“美の女神”に恋をしているから、苦しくても続けているんです。私もいまはアーティストと呼んでいただいていますが、もともとは石屋ですからね。大理石の加工技術や道具の使い方などもすべて、イタリアの職人から学びましたから。でも結局、アーティストになれずに石屋になる人が、イタリアにはけっこう大勢いますよ。

だから大事なのは、先ほどもいいましたが、作品をつくって、まずは自分が感動できるかどうかということ。できなければ他人が感動することはなく、お金の授受も成り立たない。1回は親戚や友人がお付き合いで買ってくれるからいいですよ。でもそれも2回目はないからね。あとは全然知らない人たちが、その作品をほしいと思うかどうか。

それは芸術だけではなく、どんな分野でも同じでしょうね。

作品「シリーズ/記憶の壁-生命のシンフォニー-」
(H.60×L.80㎝、ネオフレスコ、2017年、絵画作品)


作品「生命の歌」
(H.67.5×L.67.5㎝、2017年、墨絵作品)