特別企画

お墓や石について、さまざまな声をお届けします。

作品が誰かを勇気づけ、前向きにできれば、とてもうれしい―望月正幸氏

2022.04.25


望月正幸氏インタビュー電動工具で石を削る望月正幸さん


●インタビュー/「月刊石材」2021年12月号掲載

作品が誰かを勇気づけ、
前向きにできれば、とてもうれしい

望月正幸氏(望月石材店 / 山梨県富士川町)
*「望月正幸の石材アート」はこちら


三代目として石屋を継ぐはずが、
交通事故で17歳から21歳まで入院

――石材業はいつ頃から始められましたか?
望月正幸氏(以下=望月) 祖父(故人、正直氏)が戦前に富士吉田(山梨県東南部)で石屋を始め、戦争から帰って来てからこちらに住まいを移し、昭和23年頃から仕事を再開したそうです。毎日、朝早くから庭先で石を叩いていて、近所の人が「おはよう」と声をかけても、手を休めることなく「おはよう!」とこたえるような、職人気質の人だったと聞いています。

二代目を父(幸源=ゆきもと氏)が継ぎますが、父は平成13年に亡くなりました。本当は自分が三代目を継ぐつもりでいたのですが、高校2年生のときに交通事故に遭いまして、弟(俊幸氏)が後を継いでくれています。

――交通事故で重傷を負われたのですね。
望月 はい。もうすぐで26年(2021年10月当時)になりますが、17歳の12月12日(1995年)でした。自分は県立甲府工業高校(甲府市)に電車で通っていましたが、自宅から最寄駅まではバイクを使っていました。その日は期末テストの最終日で、午前中に試験が終わり、午後は所属するラグビー部のトレーニングに参加して、午後4時過ぎの電車で帰って来ました。

よくあることですが朝寝坊をして(笑)、朝は最寄駅より2つ先の駅までバイクで行き、そこから帰る途中にトラックと接触しました。バランスを崩し、反対側の家の塀に頭から突っ込んで、首の骨を脱臼骨折しました。

事故から10日ほど経ってから病院のベッドで少し意識がはっきりすると、首をガッチリ固定され、手と足はもちろん全身をまったく動かせず、声も出せませんでした。事故に遭ったことすら覚えてなく、意識が混とんとするなか、目を覚ますたびに病室の天井にあいている無数の小さな穴を眺めながら、「何だ、この夢は!?」と。いつも同じ映像しか見えないので、現実なのか、夢なのかさえわかりませんでした。母(映子さん)に「あんた、事故に遭ったのよ」と教えられてようやく現実であることを知りましたが、いまだに事故の状況などは思い出せません。

気づいたらこういう身体になっていたわけですが、もうそれを受け入れざるを得ないんだと思いました。でもやはり、「やってられねえな」という気持ちがあったのは確かです。身体をまったく動かせず、自分の力では何もできないわけですから、「一生こんな状態で生きていくのか。このままずっと誰かの重荷になって生きていくのか」と思うこともあり、「もう無理だなぁ」と。いま振り返っても、しばらくは半分パニック状態になっていたと思います。

――それからリハビリが始まり、退院が21歳の夏(1999年)。一度は死も考えられたとか。
望月 3年8ヵ月くらい入院していました。その間、いろいろなことがあって何度か絶望しかけたこともあり、リハビリも辛かったですが、もともとラグビーをやっていて体育会系ですから、辛いリハビリも「あと5回、あと10回」と自分に課すことで充実感を得られて楽しかった面もありました。それに、そうしたほうが疲れて夜もよく眠れるんです。眠っている間は余計なことを考えないで済みますからね。

確かに最初は自分の境遇を受け入れられず、一度だけ死を考えました。でも母から「いい加減にしなさい」と、首が動かないように頭蓋骨にボルトを入れて固定しているのに、ビンタされたんです。そして目に涙を浮かべながら「みんながあんたのことをよくしようと頑張っているのに、あんたは何てことをしているの」といわれました。それで目が覚めました。

「俺は何をやっているんだ。逃げている場合じゃないだろ」

普通なら半年か、1年くらいでリハビリを終えて退院なのですが、自分の場合は、事故の影響なのか、股関節が骨化する難病「骨化性筋炎」を発症し、その手術は成長期を避けて20歳まで待たなければ行なえませんでした。またお尻に褥瘡(=じょくそう、重度の床ずれ)ができ、その治療のために半年間は横向きのままだったり、膀胱結石を患(=わずら)ったり。他にも、ベッドを45度上げただけでも血圧が下がって目まいを起こすなど、本当にいろいろなことを経験しました。

いまも手と足が不自由で、車椅子は欠かせません。腕は、曲げることはできますが、たとえば重力に逆らって手を上げて伸ばした状態を維持することはできません。


望月正幸氏インタビュー正幸さんの弟・俊幸さんが三代目を継いでいる望月石材店。いまも機械設備を維持し、お客様に寄り添ったお墓づくりに努める



鳥居に刻まれた祖父の名に衝撃!
中学2年生で「石屋になる」と決意

――「三代目を継ぐつもりでいた」とのことですが、小さい頃から先代の仕事を見て、手伝っていたのですね。
望月 はい。でも最初はイヤイヤでした(笑)。小学校の中学年くらいから親父にいわれて墓地などの現場に付いて行っていましたが、日曜日など学校が休みの日だから友だちと遊びたいし、どこか遊びに連れて行ってほしいし(笑)。考えると、母も手伝っていましたから、物心ついたころから墓地で遊んだり、水汲みをしたり、見よう見真似で手伝っていました。

父はお酒が好きで、酔うといつも「虎は死んで皮を残す。人は死んで名を残す(故事=虎は死して皮を留め、人は死して名を残す)」といっていました。それは祖父が生前、同じように父に語っていた言葉で、祖父は自分が幼稚園のときに亡くなっていましたが、自分も父に小さい頃から繰り返し聞かされていました。

それで中学2年生のときに町内の山間部にある墓地(富士川町平林)に手伝いに行ったときに、親父に連れられて近くの氷室神社に石の鳥居を見に行ったんです。すると「これ(鳥居)、じいちゃんがつくったんだぞ」というので後ろを見ると、確かに「望月正直」と彫ってあり、それを見た瞬間に、「人は死んで名を残す」という祖父からのメッセージを受け取ったようで、ものすごい衝撃を受けました。

その感動から「やるなら石屋だな」と思いました。それからは自分から進んで仕事を手伝っていました。親父は家にいるときはほとんど喋らないんですが、外に出るといろいろな話をしてくれて、それも楽しかったんですね。酒好きな破天荒な人で、自分が退院した翌々年の春にガンで亡くなりました。


望月正幸氏インタビュー山梨県富士川町にある氷室神社の石鳥居。柱の裏面に「石工 望月正直」と、正幸さんの祖父の名が刻まれている。中学2年生で初めてそれを見た正幸さんは感動で全身に衝撃が走り、「石屋になる」と決意した。右写真は、その話を聞いた正幸さんの友人が撮影してくれた写真(左:© 2021 Google)