いしずえ

お墓や石に関するさまざまな注目情報を発信します。

韓国石造物の聖地「慶州」

2020.11.13

お墓・石塔

 

仏国寺大雄殿前にある多宝塔(右)と釈迦塔仏国寺大雄殿前にある多宝塔(右)と釈迦塔

新羅千年の都「慶州」

 韓国を代表する古都の一つ「慶州」。“新羅千年の都”といわれ、新羅が建国した紀元前57年から滅亡する953年までの約千年間、政治・文化の中心地であった場所です。ただし、新羅が実際に国家として体制を整えたのは四世紀半ばになってからのことであり、それ以前は伝説時代といわれています。

新羅は663年には百済を、668年には高句麗を滅ぼして三国を統一しました。両国と戦う際には、新羅・唐の連合軍で攻めましたが、670年にはそれまで連合国であった唐と戦っています。しかし、後に和解し、新羅は唐の律令制、王権制などを採り入れました。

高句麗、百済との融合、さらには唐の影響を受けながら、独自の国家を作り出していった新羅。その中心地が「慶州」であり、新羅の文化、芸術に大きく影響を与えたのが「仏教」でした。

朝鮮半島仏教の始まり

 朝鮮半島の仏教は中国仏教の伝播で、高句麗には小獣林王2年(372)、百済には枕流王元年(384)に伝播したといわれています。

 新羅へは三国でもっとも遅く、訥祗王時代(417~458)に、高句麗僧によって仏教が伝えられたとされています。これはいわば民間レベルで、仏教が新羅にとって国家的問題となったのは、法興王時代(514~540)でした。仏教受容に反対する貴族が多く、崇仏派の殉教者も現われる争いの末に、仏教は王権と結びついて興隆するようになりました。

 中国から伝来した仏教が朝鮮半島に受容され、定着したのは高句麗、百済、新羅の三国統一後の統一新羅時代(676~935)であったといわれています。統一新羅初期の仏教界で活躍した学僧元暁は、華厳宗、法相宗、三論宗、浄土教などあらゆる教学を融合させ、その総合仏教は、その後の仏教の基盤となりました。

 統一新羅の仏教は、国家仏教・貴族仏教として国家統一の精神的支柱になり、また民族固有のシャーマニズムと習合した浄土信仰や弥勒信仰が、民衆のなかに深く浸透していきました。

 統一新羅が滅亡した後の高麗時代(936~1392)になっても仏教は盛んで、海印寺には高麗王室が16年の歳月をかけて完成した高麗版八万大蔵経の板木(世界遺産)が残っています。
 
 ちなみに、日本へは538年に百済から仏教が伝来しています。ついで高句麗仏教、推古朝の末期には新羅仏教が入り、さらに遣隋・遣唐の学問僧の帰国とともに大陸仏教が流入しました。

「慶州」石造物の美しさ

 慶州にある石造物は、陵墓彫刻もありますが、石仏や石塔などの仏教遺物が中心です。そのほとんどが花崗岩製で、素材の持ち味を余すところなく発揮し、風化具合には美しさを感じます。加工をした石工の技術、その芸術性は奈良や近江の石造物に合い通じるものがあり、素朴さ、力強さ、おおらかさ、尊厳性が感じられ、見飽きず気品があります。
 
 優れた石造物が数多く作られた理由としては、石工技術はもちろんのこと、良質な花崗岩が産出されたこと、また、深い仏教信仰があったからだと思われます。それは日本でも同じことで、日本石造美術の最高潮は鎌倉時代であり、仏教隆盛の時代でした。


仏国寺の石壇
仏国寺の石壇仏国寺の石壇。仏国寺は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に焼き討ちされ、
石造物のみ残った。

現在の姿は1870~1930年にかけての復元工事による

仏国寺の石灯籠仏国寺の石灯籠


 慶州郡内だけでも石塔は七十五基を数え、その発生は七世紀前半頃、木塔や塼塔の模造と考えられています。一般的な形は二段の基壇、角形柱型の塔身、階段状の持ち送り、桧皮葺のような形をした屋根からなり、塔の層数は三重、五重、七重、十三重とあり、三重、五重が多数を占めています。

慶州高仙寺址三重石塔慶州高仙寺址三重石塔(国立慶州博物館展示)

慶州南山寺僧焼谷三重石塔慶州南山寺僧焼谷三重石塔(国立慶州博物館展示)

 
 朝鮮半島の石塔は中国の影響を受けつつも、その結果生まれたのではなく、その発生の様相、伝承の変遷をさかのぼると、独自に生まれたと考えられています。

 新羅の一般的な石塔の代表としては、751年に建立したとされる慶州仏国寺(世界遺産)の釈迦塔(国宝)が挙げられます。百済の石工アサダルが造ったとされ、すぐ横に建つ多宝塔(国宝)を造った後に、同塔を完成させるまでの悲話、妻アサニョとの伝説も残っています。

仏国寺(慶州)釈迦塔仏国寺(慶州)釈迦塔は伝説から無影塔とも呼ばれる。
相輪は失われていたのを復元した


 釈迦塔は1966年に復元工事が行なわれ、その際には塔身二段の中央部から金銅の舎利箱、世界最古の木版印刷物とされる無垢浄光大陀羅尼経などの遺物が発見されました。舎利信仰、陀羅尼による法舎利信仰であり、こうした遺物からも当時の仏塔信仰の奥深さを感じ取ることができます。

 高句麗時代の石塔で現存するものはありません。百済でも現存している石塔は二基のみであり、その一つ扶余の定林寺址五重石塔(平済塔、国宝)は著名で、滋賀県蒲生町石塔寺にある三重塔のルーツともいわれています。蒲生周辺には百済から移住した人々が住んでいたようで、日本の石材加工には朝鮮半島の技術も伝播していることは確かでしょう。

 仏国寺の近くには石窟庵(国宝、世界遺産)があります。本来は石仏寺の本尊を祀る庵で、宰相の金大城が751年に前世の両親のために創建したといいます。金大城は同年に仏国寺も創建していますが、ここは現在の両親のためでした。いずれもその規模から、何らかの形で国家の力が関わっていると見られています。

 石窟庵は前室と円形の主室に分かれており、その平面配置は、インドの石窟であるチャイティアの影響が濃厚と考えられています。主室に祀られている本尊は、釈迦如来とも阿弥陀如来ともいわれ、本尊仏のすぐ後ろには十一面観音菩薩、左右に天父像、普賢・文殊菩薩像、十大弟子像、前室には八部神像、金剛力士(仁王像)、四天王像が彫刻されています。

 日本にも地蔵菩薩を本尊として、その左右には釈迦如来、弥勒菩薩を彫刻し、そのほか仁王像、聖観音像、不動明王像、十王像、四天王像、五輪塔、観音・勢至菩薩の種子などが地蔵菩薩のまわりに巡らされ、極楽往生を願う地蔵世界が具現化されている石仏龕があります。奈良の十輪院にある石仏龕で、鎌倉中期の造立、南都仏教の教義を基盤に民間信仰の影響を受けたものと考えられています。

 新羅の石窟庵が奈良の石仏龕に直接伝播したということはないと思われますが、仏教を信仰した人々の願いは同じであったであろうし、それがあったからこそ、石工の技術、芸術性が高い水準で保たれたに違いありません。

仏塔信仰とその起源 

 朝鮮半島には、仏教伝来により数多くの僧尼、経典、仏舎利、仏像などが将来されました。同時に高句麗・百済・新羅の国々では寺院が盛んに建立され、その目的は、仏舎利を仏塔に安置し、堂に仏像を安置して礼拝するためで、つまり、釈尊を崇拝することでした。

 光学浮屠
光学浮屠仏国寺毘盧殿の前庭の右側隅にあり、「光学浮屠」と呼ばれる舎利石塔。
高麗時代の作とされる


 韓国には木塔、塼塔、石塔ほか青銅塔、金銅塔まで含めると、調査された仏塔は、およそ千基になるといいます。
 
 では仏塔信仰とは一体何なのでしょうか。
 
 大乗経典には仏塔に関する記述は数多く、なかでも最も密接に結合しているのは『法華経』です。このお経には仏滅後には舎利塔を建てて供養するという思想が色濃く、舎利供養の功徳、仏塔信仰によって成仏できることが説かれています。 
 
 舎利塔供養の源流は、釈尊入滅後遺体が火葬され、残された舎利が八つに分けられた後に舎利塔を建立、供養されたことによりますが、『法華経』がこの舎利塔崇拝の伝統を継いでいることは明らかです。
 
 『大宝積経』関係の経典にも仏塔に関する記述は多く、『大宝積経』「菩薩蔵会」には釈尊の入滅後に舎利が広く流布し、霊廟が建てられたこと、「菩薩見実会」には「塔廟を造立して供養する」功徳を説き、如来が入滅後に舎利を残し、衆生はこの仏舎利を供養することによって、「甘露好涅槃を得ること」ができると説かれています。
 
 『華厳経』にも如来入滅後に塔廟を起こし供養することが説かれ、志謙訳『大阿弥陀経』には、阿弥陀仏の二十四願の「第六願」に仏塔の願があり、仏塔信仰によって極楽往生できる、とあります。
 
 『大般涅槃経』には、如来の入滅後仏塔をつくり、誰であろうと、そこに花輪または香料または顔料をささげて礼拝し、また心を清らかにして信ずる人々には、長い間利益と幸せが起こる、死後に身体が壊れてのちに、善いところ・天界に生まれる、とあります。
 
 部派仏教の大多数では、仏塔供養には功徳が少ないと考えられていたようですが、仏塔供養は行われていました。僧団で暮らす出家者たちの生活規則である律蔵は、教団の分裂に伴い二十の部派ごとに伝承されましたが、『四分律』『五分律』『摩訶僧祗律』『根本有部律』『十誦律』などには仏塔に関する説明がみられます。
 
 『摩訶僧祗律』には、釈尊みずからが「迦葉仏」の仏塔を作り、「百千の黄金を布施するよりも、一善心をもって、仏塔を礼拝することに及ばない」「百千の黄金を布施するよりも、一善心をもって、仏塔に香・華を供養するに及ばない」と、仏塔を建立する功徳の大きいことを説いています。さらに、仏塔の作り方についても次のように指示されました。
 
 「下の基盤の四方(形)にし、欄楯(=手すり)を周匝して、真中の塔身である『円起』は二重になし、方牙(=屋根)を四方に突出させる。そして塔の上には盤蓋(=露盤・伏鉢)をほどこし、長く相輪を表す」
 
 この作塔法は、屋根が二重の多宝塔のルーツともいわれ、仏国寺の多宝塔は、この作塔法に基づくとも考えられていてます。

仏国寺(慶州)多宝塔仏国寺(慶州)多宝塔。有影塔とも呼ばれる


  釈尊による迦葉仏塔の説明は『法華経』にある釈尊と多宝如来の二仏が宝塔内で結跏趺坐する「見宝塔品第十一」との親近性も論じられており、仏国寺にある釈迦塔と多宝塔の二塔は、思想的関連性があるのかもしれません。
 
 作塔法はほかの律にも見られ、『根本有部律雑事』には「塔の基は甎を積んで両重に作る。つぎに塔身を作り、その上に伏鉢を安んずる。その上に平頭をおく。その真中に輪竿を立てる。つぎに相輪をつける。相輪の数は、一・二・三・四から十三までとする。その上に宝瓶を安んず」と説明され、サンチーの大塔はこの型式のようです。
 
 『四分律』には釈尊が「迦葉仏」だけではなく「舎利弗」の塔を作ったことも述べられていますが、そこでは、塔は四角・円形・八角などで、材料は石・墼・もしくは木で作り、上に黒泥・苔泥・牛屎泥・白泥・白墠などを塗り、塔基は四方に欄楯を作り、華・香をその上に安んずなどと指示されています。
 
 結論として仏塔信仰の意味を考えると、仏塔を信仰し功徳を積むことにより、幸せになれ、成仏できるということでしょう。
 
 そして忘れてはならないのが、インドに始まった仏塔信仰が中国、朝鮮半島を経て、もっとも花開いたのが日本であり、その仏塔信仰が“日本人のお墓に深く関係している”ということです。

朝鮮半島の墓制

 朝鮮半島の墓制は石器時代の古墳とされるドルメンから始まり、三国時代には後漢や北魏、東晋などの影響を受けた陵墓が作られました。新羅初期には風水思想がすでに伝来しており、僧侶たちは仏道を磨く一方で風水学を勉強し、僧侶としてだけではなく、風水師としての権威を具備するようになりました。

 統一新羅時代の陵墓は唐文化の影響で壮麗になり、陵墓の前に碑閣が建ち、石柱、石人、石獣で神道を飾り、古墳の周囲に護石、石欄をめぐらしました。またこの時代は仏教隆盛の結果、火葬が一般的で、厚葬は衰え、山上に石で小室を築き、中に骨壷を納めるだけのものが多くなり、次の高麗・朝鮮朝(李朝)時代の墓制の基となったと考えられています。

石碑の基礎となった亀趺(国立慶州博物館)石碑の基礎となった亀趺(国立慶州博物館)

陵墓の護石に使われた十二支像の一部(国立慶州博物館)


 高麗が滅亡し、朝鮮朝(1408~1859)になると儒教の国教化に伴い仏教は弾圧されました。高麗末には中国の朱子学が受容され、そして『朱子家礼』が重んじられました。『朱子家礼』に修正を加えて出された『四礼便覧』(李縡の編纂、1884年刊)は、現在の韓国でも儒教式葬礼や祭礼用のテキストとなっています。
 
 『四例便覧』によって葬礼や祭礼を儒教式に厳格に行うことは、当初は上層階級や両班に限られましたが、次第に庶民層に普及していきました。
 
 臨終を確かめると遺族は大きな泣き声を上げながら死体を整え、葬礼を始めます。遺骸は北斗七星をかたどった七星板に載せ、この時に一人の男が死者の上衣を持って屋根に上り、「おい、誰々よ、かえれ」と三度魂を呼び招きます。喪主をはじめ遺族は麻布の喪服に改めます。翌日、遺骸を「寿衣」と呼ばれる「経帷子」に着替えさせ、三日目には納棺します(以前は「もがり」の風俗があった)。棺は「喪輿」という台に載せ、大勢で歌を歌いながら野辺送りをし、土葬もしくは火葬で、墓には芝が張られます。墓地は風水思想に基づいて個人ごとに吉地が選ばれました。そのため個人墓を主としていましたが、近年は共同墓地も増えています。


風水思想を採り入れた墓地(ソウル市営霊園)風水思想を採り入れた墓地が無数に広がる
(ソウル市営霊園)

風水のお墓(ソウル市営霊園)風水のお墓(ソウル市営霊園)


 満一年の命日に「小祥」、満二年に「大祥」と呼ばれる祭りを行い、これを済ませて喪服を脱げば葬礼は終わりです。次の命日から祭礼に移っていきますが、儒教式の祭礼には大別して家の祭りと墓の祭りの二種類があります。
 
 家の祭りは、四代の祖先、すなわち亡き父母・祖父母・曾祖父母・高祖父母の各位に上げるものです。これにもさらに2種類あり、各位の命日に行う忌祭(忌祭祀)と、1年のうちソルラル(旧元旦)やチュソク(秋夕)などの節日に行う茶礼とに分かれます。いずれも祖先各位の直系の子孫が本家に集まり、儒教の式次第によって祭りが捧げられます。

宗廟正殿(ソウル)宗廟正殿(ソウル)

宗廟は儒学を統治思想として建国した朝鮮王朝の歴代国王と王妃、そして死後称号を贈られた王と王妃の位牌を祀り、祭祀を執り行った場である。上記写真は。真中の道は「神路」で、魂の通る道である。
 
 墓の祭りは時祭(時祀・時享)といい、5代以上始祖に至る祖先各位に対して、それぞれの墓前で一定の期日に一族の男性全員が集まり、儒教の式次第によって祭りをあげます。秋の収穫を終えた旧10月に行われることが多く、元来は春夏秋冬の四時に祭りを行ない、時祭と名付けられましたが、現在は年1回となっています。
 
 韓国の火葬率は2005年に52.3%となり、初めて50%を突破し、1994年の20.5%の2.5倍以上で、およそ十年間で葬送方法が画期的に変わったといいます。

ロッカー式の納骨堂(ソウル市営霊園)ロッカー式の納骨堂(ソウル市営霊園)

 
 韓国の文化は日本に近いようですが、同じではありません。日本は日本で様々な文化を採り入れながら、独自の文化を作り上げてきました。海外へ来て思うことは、そうした日本文化を大切に守らなければならない、ということです。 

◎参考文献(順不同)
 佐伯啓造著『塔婆之研究』鵤故郷舎出版部、高裕燮著『朝鮮塔婆の研究』吉川弘文館、宋錫範著『新羅石塔の研究』漢拏文化振興会、鄭永鎬著『韓国の石塔』近藤出版社、姜友邦著『新羅の十二支像』近藤出版社、平川彰著『初期大乗仏教の研究』春秋社、佛教史学会編『仏教の歴史的地域的展開』法藏館、鎌田茂雄著『朝鮮仏教史』東京大学出版社、速水侑著『日本仏教史古代』吉川弘文館、任東権著『韓国の民俗と伝承』桜楓社、森浩一監修『韓国古代遺跡1新羅編(慶州)』金両基監修『韓国』新潮社、小畠宏允監修・編著『日本人のお墓』日本石材産業協会、小畠宏允著「お墓よもやま話」(『月刊石材』連載)ほか

 

(中江庸「十人の会」が韓国研修を開催『月刊石材』2007年5月号より転載)