いしずえ

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須田郡司~聖なる石への旅「ル・ピュイの岩の聖地」(フランス)

2020.11.12

その他

写真1


 フランス南部にあるル・ピュイ=アン=ヴレの旧市街は、スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の1つで出発点になっています。サンティアゴ・デ・コンポステーラは聖ヤコブの遺骸を祭るカトリック教会で、古くからローマ、エルサレムと並んで最も人気のある巡礼地です。

 ル・ピュイは10世紀中ごろに時の司祭がフランスで初めてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼をしてから巡礼路の基点の1つになったといいます。また、その頃にはマリア信仰の聖地としてフランス全土に知れ渡ってゆきました。穏やかな田舎街ル・ピュイは、今でも多くの巡礼者や観光客を魅了する岩の聖地です(写真1、ル・ピュイの丘から望む。左手前のデュク岩・82メートルと、前方奥に見えるコルネイユ岩・130メートル)。

 円錐状の死火山(コルネイユ岩)の山麓から山腹に、世界遺産に登録されているノートルダム大聖堂(写真2)やサン=ジャック施療院があり、山頂には巨大な鉄製の聖母子像が立っています(写真3)。これは、19世紀にクルミア戦争で勝利したことに感謝して大砲213門を溶解して造ったものです。聖母子像の中は、螺旋階段で上がれ、いくつかの窓から外を覗くことができ、胎内巡りのようです。

写真2

写真3


 ノートルダム大聖堂は、黒い聖母マリア像で知られています(写真4)。古代ガロ・ローマ時代、熱病に冒された貴婦人の前に聖母マリアが出現して「この石に座ると治る」といい、実際に座ると治ったといいます。その噂を聞きつけた人々の信仰を集め、マリアがここに聖堂を建てることを指示し、教会が建てられたそうです。

 黒い聖母マリア像がある場所は、かつてのドルイド教(古代ケルト人の原始宗教)の価値観、つまり聖なる石、岩、水、木、山への信仰が根強く残っていた場所と考えられています。このル・ピュイも元々はドルイド教の聖地であり、聖母マリアが黒く塗られたのは、元来、その土地で信仰されていたケルトの大地母神である土着信仰と結びついた可能性があります。

写真4


 ル・ピュイは10世紀中ごろに時の司祭がフランスで初めてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼をしてから巡礼路の基点の1つになったといいます。また、その頃にはマリア信仰の聖地としてフランス全土に知れ渡ってゆきました。穏やかな田舎街ル・ピュイは、今でも多くの巡礼者や観光客を魅了する岩の聖地です。

 ル・ピュイの街で、特に異彩を放つ光景と言えばサン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂が建つ火山岩尖のデュク岩です(写真5)。この奇岩の景色は、一度見たら忘れられないミステリアスな景観です。岩の回りには螺旋を描くような265段の石段があり、10分ほどで岩の上ることができます。そこから見渡す風景は、実に美しく、眼下に広がるオレンジ色の屋根を見ていると、どこか中世の町へタイムスリップしたようです。

写真5


 10世紀のロマネスク様式の礼拝堂の入口で靴を脱ぎ裸足で中へ入ると、岩盤そのものです。ステンドグラスの光に照らされた石柱やフレスコ画が静かに浮かび上がり、再生機から賛美歌が流れ、何人かの人は黙想をしていました。とても居心地のよい空間です。このディク岩もキリスト教以前からの聖なる場所だった可能性があります。私は、しばし岩の上に身体を横たえてみました。すると、磁石のように身体が吸い付いてゆくような感覚になり、どこかアナザーワールドへ導かれるようでした(写真6、サン・ミッシェル・デギュイ礼拝堂の入口。写真7、サン・ミッシェル・デギュイ礼拝堂の内部)。

写真6

写真7


 ローマ帝国末期以来、キリスト教の大司教や司教のおかれた都市を司教座都市といいます。このル・ピュイは、1,000年以上の歴史を持つ司教座都市でした。中世より周辺の荘園から人と物資が集まり、宗教的・政治的な地方における中心地であり、地方文化の花を咲かせました。

 

※『月刊石材』2014年10月号より転載

 

◎All photos: (c) Gunji Suda

◎ 須田 郡司プロフィール
1962年、群馬県生まれ。島根県出雲市在住。巨石ハンター・フォトグラファー。日本国内や世界50カ国以上を訪ね、聖なる石や巨石を撮影。「石の語りべ」として全国を廻り、その魅力を伝えている。写真集『日本の巨石~イワクラの世界』(星雲社)、『日本石巡礼』、『世界石巡礼』(ともに日本経済新聞出版社)、『日本の聖なる石を訪ねて』(祥伝社)など。

◎須田郡司ツイッター
https://twitter.com/voiceofstone