いしずえ
お墓や石に関するさまざまな注目情報を発信します。
須田郡司~聖なる石への旅「隠岐の石の聖地(西ノ島編)~焼火神社と国賀海岸」(島根県隠岐郡)
写真1
焼火神社へとつづく山道を登って行くと霧が立ち込めてきた。やがて、立派な石積みをもつ社務所が見え、灯りがついていた。今夜の祭りの準備をしているのだろうか。そこから少し歩くと、杉の巨木の奥に社殿が現れた。岩盤の窪みの中に、本殿が半分ほど入り、その前に拝殿があった(写真1)。何とも不思議な光景である。日が沈み、しばらくすると神官と神楽師が拝殿に参集した。厳かな神事の後、島前神楽の音が焼火山の闇に響き渡った。
2014年7月23日、隠岐郡西ノ島町にある焼火神社の例大祭に参列し、初めて島前神楽を拝見した。午後8時過ぎ、焼火神社拝殿にて神職による祭典が執り行われ、御幣を持った「神途舞」が一番奉納された(写真2)。その後、社務所の座敷を神楽場として島前神楽が行われた(写真3、猿田彦の舞)。社務所の神楽は再び「神途舞」から始まり、八畳間の後ろに幕を張り、その奥から出入りし、天井には天蓋が吊り下げられている。
写真2
写真3
島前神楽は、中世の修験者が舞と能を組み合わせた芸能から始まり、神事に限らず、雨乞いや大漁祈願、病気平癒のために奉られた。その特徴は、まず舞台の小ささ。二間四方、奏楽が四畳、舞人が残りの四畳を使うので、いかに大きく動きのある舞いを見せるかが、演技力の要。また、巫女舞が主要な位置を占めている(写真4)。舞は、つま先をよく使い、動きもダイナミックで見ていて飽きない。笛は使わず、太鼓と手打鉦だけの演奏がより普遍性を感じさせる。
写真4
焼火山(海抜452メートル)の中腹にある焼火神社は(写真5、6)、明治以前は神仏混淆で雲上寺という寺であり、地蔵菩薩のご本尊が祀られていた。
写真5 岩盤と本殿、拝殿、灯籠がみごとな配置で納まっている
写真6 焼火神社拝殿。拝殿は梁間3間桁行4間の入母屋造妻入で、参道に面する西側を正面とし、南側は断崖に乗り出す形の懸造。西正面に1間の軒唐破風の向拝を付け、東側には神饌所が付属する。寛文13年(1673年)の建造で、屋根は銅板葺。
一条天皇の時代(987~1011)の旧暦12月30日の夜(大晦日)、海上から火が3つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在もその日には龍灯祭という神事が行われている。かつては、隠岐島全体から集って神社の社務所に篭り、神火を拝む風習があった。現在もその名残を留め、旧正月の5日から島前の各集落が各々日を選んでお参りする「はつまいり」が伝承されている。江戸時代には北前船の入港によって、海上安全の神と崇められ、日本各地に焼火権現の末社が点在しているという。
西ノ島を代表する景勝地に国賀海岸がある。東西に約7キロにわたって、断崖・絶壁・洞窟が続き、隠岐一と称される景観美を誇っている。昭和13年に国の名勝および天然記念物に指定された。
中でも圧巻なのは『摩天崖』だ(写真7)。巨大なナイフで垂直に切り取ったような高さ257メートルの大絶壁は、海蝕崖では日本一の高さ。その頂上から海を見下ろすと身の縮むようなスケールを感じ取ることができる。アーチ状の岩の架け橋『通天橋』は、海にせり出した巨大な岩の中央部が海蝕作用によってえぐり取られたもので、大自然の造形の神秘性を感じる(写真8)。
写真7
写真8
近年、国賀海岸の岩場に国賀神社が鎮座した(写真9)。対岸の岩上から望むと、まるで後ろの観音岩がご神体のように見えた。自然の造形美と人間が作る建築が重なると、更に魅力的な風景が出現する。それは、焼火神社も同じである。
写真9
国賀神社と観音岩、巨岩に抱かれる焼火神社、この2つの光景は、信仰の原初的な世界を強く感じさせてくれる。
隠岐ジオパークは、島根半島の北40キロ~80キロの日本海に点在する4つの有人島と180余りの無人島からなる隠岐諸島全域を指すが、西ノ島は、岩の聖地性を強く感じさせる場所だ。
※『月刊石材』2015年9月号より転載
◎All photos: (c) Gunji Suda
◎ 須田 郡司プロフィール
1962年、群馬県生まれ。島根県出雲市在住。巨石ハンター・フォトグラファー。日本国内や世界50カ国以上を訪ね、聖なる石や巨石を撮影。「石の語りべ」として全国を廻り、その魅力を伝えている。写真集『日本の巨石~イワクラの世界』(星雲社)、『日本石巡礼』、『世界石巡礼』(ともに日本経済新聞出版社)、『日本の聖なる石を訪ねて』(祥伝社)など。
◎須田郡司ツイッター
https://twitter.com/voiceofstone