いしずえ
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須田郡司~聖なる石への旅「ケルト幻想の聖地〜スケリグ・ヴィヒール島」(アイルランド)
写真1
北大西洋に浮かぶアイルランド島は、アイルランド共和国と北アイルランド英国領から構成されている。アイルランドを車で走ると車窓に広がる緑豊かな大地、形を変えつづける雲を見ているだけでも様々なインスピレーションが訪れ、妖精の存在を感じさせる。ゲール語という独自の言語を持ち、ケルトの文化が脈々と受け継がれている。
アイルランド南西部の州であるケリー州に浮かぶ絶海の孤島、それがスケリグ・ヴィヒール島(写真1)。スケリグ、スモールスケリグ、レモンロックの3つの巖、「スケリグ」とはゲール語で「岩」をいい、「ヴィヒール」は英語「マイケル(=ミカエル)」のゲール語読み、ここは大天使ミカエルを祀る聖なる島である。
アイルランドの修道士は、その修行の場として大西洋の荒波に洗われる西の離島を選んだ。6世紀、聖フェナンがここに修道院を開き、8世紀初頭からヴァイキングの襲撃に脅かされながらも、13世紀までケルト修道院の独自性を守りつづけた。
スケリグ島行きの小さな船は、ポートマギーの港から出ていた(写真2)。その船は、10人も乗ればいっぱいになる小さな漁船だった。
写真2
船がヴァレンティア島から離れれば離れるほど荒波になってきた。やがて、水しぶきの洗礼を受けながら、小舟は大揺れに揺れた。船酔いに堪えながら、水しぶきでカメラを濡らすまいと身動きができない状態がつづいた。
いったいどのくらい時が流れたのだろう。目の前に黒い岩塊のスケリグ・ヴィヒール島が姿を現した(写真3)。1時間半の船旅は、何時間もの長さに感じられた。島に上陸した時、しばらく横になり天を仰いだ(写真4)。
写真3
写真4
スケリグ・ヴィヒール島は、海上に切り立った218メートルの断崖の岩島だ。
細い石段を登って行くと、いくつもの奇岩が切り立っていた(写真5、6)。崖沿いの小さな小道をしばらく進むと石積みのゲートが現れ(写真7)、そこをくぐると「蜂の巣」と呼ばれるドーム状の個室がいくつも並んでいた(写真8)。スケリグ・ヴィヒール島は、古代ケルト以来の聖地であり、また、初期キリスト教の遺跡が完全な形で残っていることで知られる。
写真5
写真6
写真7
写真8
いったい何人もの修道士達がこの島に渡り、苦行と瞑想を繰り返していたのだろう。この島が、篤いカソリック教徒であるアイルランドの人々にとって、今日も霊場でありつづけているのは、そこが俗なる欲望を断ち切り、苦行を通じて神の世界に近づこうとしたケルト修道士たちの聖なる荒野だったからだという。彼らは海鳥を獲り、雨水を溜め、ただ日々を生き延びるためだけの生活を送った。それが即ち彼らにとっての修行だった(写真9)。
写真9 墓地に立てられた十字架もかなり朽ちていた
島はアイルランドから見ると西海岸の縁にあり、その方位も重要な意味を持っていた。この「西のトポス(場所)」には、キリスト教以前からある異界観があった。それは、死後の世界が西の海の彼方にあるという信仰である。西の島は、死者が永遠の命を生きることができる「常若の国」と信じられていた。
「鉢の巣」の中に入ると、二畳から三畳の狭さだった。教会跡の窓を覗くと、ちょうど正面にスモールスケリグ島が見えていた(写真10)。ケルト修道士達は、いったいどのような思いで、この小さな巖を望んでいたのだろう。施設全体から見えるこのスモールスケリグ島は、ある種のご神体的な存在だったのではないかと思えてくる。
写真10
スケリグ・ヴィヒール島を後にした船は、スモールスケリグ島に近づいた。その時、私は思わず「あぁ」と叫んでいた。岩の中央に、縦方向の穴が空いていたのだ。それはまさに女陰(=ホト)的空間だった。
日本の聖地を訪ねて感じていた聖地の持つ性地的空間が、ここアイルランドの「西のトポス」にもあったのだ。
※『月刊石材』2015年10月号より転載
◎All photos: (c) Gunji Suda
◎ 須田 郡司プロフィール
1962年、群馬県生まれ。島根県出雲市在住。巨石ハンター・フォトグラファー。日本国内や世界50カ国以上を訪ね、聖なる石や巨石を撮影。「石の語りべ」として全国を廻り、その魅力を伝えている。写真集『日本の巨石~イワクラの世界』(星雲社)、『日本石巡礼』、『世界石巡礼』(ともに日本経済新聞出版社)、『日本の聖なる石を訪ねて』(祥伝社)など。
◎須田郡司ツイッター
https://twitter.com/voiceofstone