いしずえ
お墓や石に関するさまざまな注目情報を発信します。
山陰の霊魂観 ~大山周辺の「精霊送り」を見る~
大山の金門と元谷の間に位置する賽の河原。奥に見えるのが大山山頂
・山陰の霊魂観 ~大山周辺の「精霊送り」を見る~
日本海側に面し、古代は朝鮮半島と交流が盛んであった山陰地方。日本神話と深いつながりを持つ地域でもあり、島根県出雲市にある出雲大社は2013年、60年に一度の大遷宮を迎えた。
山陰の名峰・大山は、山陽側からも篤い信仰の対象となっており、平安時代には山伏などが修行をする「修験の山」として、全国にその名が知られていた。
2013年8月15日午後、大山中腹にある天台宗別格本山・角磐山(かくばんざん)大山寺の阿弥陀堂(重要文化財)で、「施餓鬼会(せがきえ)」と「流れ潅頂(かんじょう)」が行なわれた。「施餓鬼会」は、餓鬼道で苦しむ一切の衆生(しゅじょう)に食物を施して供養する法会。
大山寺の「流れ潅頂」は、小さな経木札(板塔婆)故人の戒名や「先祖代々の霊位」などと書き、そのお札を水で流すことで、先祖供養をするものだ。
8月15日午後、大山寺阿弥陀堂(鳥取県大山町)でおこなわれた施餓鬼会のようす。本尊は、天承元年(1131)年に大仏師良圓によってつくられた丈六(2.66m)の木造阿弥陀如来坐像で、その両脇には観音菩薩と勢至菩薩を安置する阿弥陀三尊の配置。いずれの仏像も重要文化財に指定されている
阿弥陀堂は天文21年(1552)に建立され、大山寺境内に現存する最古の建物(左)。流れ潅頂は、施餓鬼棚の下でおこなわれた
同日夕方、盆の「送り火」のために人々が続々と集まってくる。それぞれ顔を合わせると、「こんにちは」「元気だった?」と挨拶する光景に心が和む。鳥取県琴浦町にある花見潟墓地は、海岸に面した墓地として極めて稀で、西日本最大級。1ヵ所の海岸に集中した自然発生墓地であり、現在は2万基余りのお墓があるという。
お盆に帰省し、久しぶりの再会が「この墓地で」という人たちも多いのであろう。
8月15日夕方の花見潟墓地内のようす。
老若男女、多くの人がご先祖様を送るために「送り火」を焚き、お参りをしていた
墓前では、13日の「迎え火」の際に供えた盆花を樒(きしみ)に差し替え、お墓を掃除する。そしてお墓の前で火を焚き、ご先祖様を送る。陽が暮れていくにつれ、墓前灯籠に灯された幾つもの火が目立ち始める。幻想的な世界である。
8月15日、陽が暮れると灯籠に灯された火が鮮明になった花見潟墓地。
以前はもっと多くの火が見えたという
14日朝、花見潟墓地からほど近い赤碕(あかさき)港から、「しゃーら舟」4艘を乗せた1艘の漁船が出港した。「しゃーら」とは「精霊」の訛(なま)りとされ、つまり「しゃーら舟」とは、「精霊舟」のことである。
出港前には、「しゃーら舟」を前に、僧侶が読経する場面も見られた。その後、「しゃーら舟」と親族らが乗船、港から7マイルほどの距離にある沖合を目指した。
乗船前には「しゃーら舟」の前で、親族がお線香を上げた
出港して約50分後、漁船のエンジンが止まった。漁船の船員は、「しゃーら舟」が転覆しないように、慣れた手つきで海面に着水させた。4艘が無事、海へ送られた。
「しゃーら舟」を送り出すのは初盆を迎えた親族たち。手を合わせる人、笑顔で見守る人、涙を見せる人……。赤碕港に戻ると、皆が晴れやかな顔で下船。「精霊送り」の意味を実感した。
鳥取県大山町羽田井地区の「万灯(まんどい)」のようす。
右の松明は男性を表し、高さ4~5m。左の松明は女性を表し、高さ3~4m
16日午後4時、「捨て墓」(埋め墓)の前に立つ2本の大きな松明に火がつけられた。「万灯(まんどい)」と呼ばれるお盆の「送り火」である。
ここは鳥取県大山町羽田井地区。大山周辺は両墓制が広く分布し、この羽田井地区も古くから「捨て墓」と「詣り墓」があった。現在、「捨て墓」に埋葬することはないが、地区住民のご先祖様が眠っていることから、お盆にはこの墓地で、「迎え火」と「送り火」をする。
羽田井地区の捨て墓は、土葬の上に「頭石」と「膳石」からなる「目当て石」と呼ばれる石を置く
墓参者は、それぞれの墓前でも火を焚き、ご先祖様を送る。「こなかり、こなかり、 じいさんも、ばあさんも、 いなはい、いなはい」。柳田國男著『先祖の話』にある「このあかり」の世界が、いまも息づく。
送り火を持ち、「こなかり、こなかり……」と口づさみながら、捨て墓の回りをまわる
・ご先祖様に会える寺 ~天台宗別格本山角磐山大山寺~
大山寺本堂
「明治初年の廃仏毀釈により、神仏が分離されてから、大山は霊山の色が濃くなり、『死者が登る山』となったのは近代からです。特に山陽側では、『亡くなった人があの世に行く途中、大山の頂上で一度、魂を宿してからあの世に上がって行く』という信仰があります」
天台宗別格本山角磐山大山寺(以下、大山寺)塔頭寺院である圓流院の大館宏雄住職はそう話す。大山寺の大館禅雄住職は父であり、いずれ大山寺の住職になる立場である。
『大山寺縁起絵巻』(国宝、昭和3年本堂と共に焼失)などによると、大山寺の創建は養老3年(718)とされ、「出雲の国玉造りの人で、狩人であった依道が美保の浦の海底から出現した金色の狼を追って大山に入り、その狼を射止めようとしたところ、狼が地蔵菩薩に化した。また地蔵菩薩は次に老尼に化し、依道に話しかける。依道はそこで出家を決意し、名前を金蓮と改め、地蔵権現を祀ったのが大山寺のはじまりである」という。
大山寺から更に大山を登ったところにある大神山神社奥宮
角磐山という山号は、天空はるか彼方の兜卒天の角が欠けて大きな磐石が地上に落ちた際に、その磐石は三つに割れ、一つは熊野山、一つは金峰山、一つは大山になったことに由来する。いずれの山も修験道が盛んであった場所である。
「修験者たちが全国から大山に訪れ、それによって大山寺は急速に大きなお寺になっていきました。また平安時代には村上天皇より地蔵権現を大智明菩薩とする勅が下され、ご本尊を本殿権現社(現在の「大神山神社奥宮」)に祀り、大智明権現というようになりました。神仏混合です」
ただし大山は聖地であって、大山寺を訪れることができたのは唯一、行者だけだった。また大山寺は、天台宗の別格本山であり高い寺格であったため、中央との結びつきが強く、都で何かあると、大山寺で祈願をすることもあった。
「ですから大山寺は、昔は民衆のためのお寺ではなく、供養儀式などもおこなえなかったようです。聖地として、たとえ僧侶が亡くなっても、この地に遺体を埋葬することはできませんでした。またその当時の僧侶は、死人にかかわる仕事をすると、法力が落ちるということで、葬儀もできませんでした」
僧侶が亡くなった場合、葬儀は大山寺から離れた山の麓にある葬儀専門のお寺でおこなわれていた。また僧侶の遺体は寺領ではなく、人知れず山に埋葬し、寺領には遺体のない墓参用のお墓が建てられた。
つまり、大山寺が「ご先祖様に会える寺」となっていったのは、前述したとおり「明治初年の廃仏毀釈により、神仏が分離されてから」ということなのである。
阿弥陀堂横にある西明院谷派の住職墓地。その当時、大山は聖地だったため、墓地に遺体を埋葬するということはなく、お墓の下には遺体やお骨は埋葬されていない。大山寺は古くから「三院四十二坊」と称され、三院とは中門院・南光院・西明院のこと。それぞれに十四坊の諸院があって、それぞれに本堂があった。西明院の本堂が阿弥陀堂である
近年、岡山のある地域では、「四十九日参り」と呼ばれる風習があり、四十九日になるまでに大山寺をお参りすれば、「賽の河原で亡くなった人の後ろ姿を見ることができる」という。
また山陰側でも、三十三年の弔いあげが済むと古くは賽の河原に納骨する風習があったようだ。
島根県安来市付近では、子供が死んだときは大山に登って石地蔵にその子供の着物を着させ、また石地蔵の前に小石を積んで供養したという。いずれも明治以降の信仰ということなのだろう。
大山寺本堂横に並ぶお地蔵さま
「大山には、農業信仰、牛馬信仰などもありますが、その根源は『神の山』、『命の宿る山』という信仰です。大山は富士山と同じように独立峰で、中国地方で一番高い山です。昔の人は、山の形が美しい、四季折々いろいろな表情を見せてくれる、高い山には神が宿る、という感覚で、山に向かって手を合わせていたのだと思います」
その昔、「高い山に神が宿るという信仰があった」のであれば、その神のなかには、「ご先祖様」が含まれていても何ら不思議ではない。「昔から山に向かって手を合わせてきた」という感覚のなかには、きっと先祖祭祀の意味もあったはずだ。
「山陰は海に対する信仰よりも、大山に対する信仰だと思います。出雲神話(『出雲国風土記』)の『国引き』のなかに大山が登場します。また山陰の信仰で特徴的なのは、中国・朝鮮に近いわけですから、渡来人の影響です。渡来人がこの地に住み着いて、狩猟や農耕を始めてから山への信仰が深まっていったと思います。大山周辺では、弥生時代の遺跡はたくさん見つかっていますし、山への信仰はかなり古くからあると思います」
しかし、最近の大山は観光地化が進み、神仏への信仰が薄れているのが実情。大山寺は、その恩恵に授かっている部分もあるが、若い世代には、「身内が亡くなったら、大山寺を参拝する」という感覚も薄れており、危機感を募らしているのが本音だ。
「大山は『ご先祖様に会える山』であり、根源としては『命を育む山』ですから、大山で輪廻転生もあるでしょう。ですから大山寺では、ご供養もどんどんしていかなければなりませんし、現在、施設等で孤独死をされる方が多いようですから、そうした方のご供養もどんどん受け入れていこうと思っています」
大山寺には檀家組織がなく、供養行事に参加するのは限られた信者さんとなる。ただし宗旨宗派は問わないので、依頼があればどこへでも供養に出かける。今後は納骨堂や供養塔などをつくり、身寄りのない方のお骨をあずかっていくことも視野に入れる。
大山寺のお盆行事は8月14日に本堂でおこなわれる「盂蘭盆会」と、阿弥陀堂(重要文化財)でおこなわれる「施餓鬼会」の二つ。「施餓鬼会」の際には、「流水潅頂」もおこなわれる。
大山寺の「流水潅頂」は、経木札(板塔婆)に故人の戒名や「先祖代々之霊位」などと書き、水を掛けて供養し、その水は川を流れて最終的には大海に出て、先祖の魂と一緒になるという先祖供養行事。この行事も近代から始まったが、以前は、賽の河原で流水潅頂をしていた。昨今は、観光客が増えて経木札を川に流すことが憚れるようになり、いまは境内にある池で供養をしている。
阿弥陀堂でおこなわれた「施餓鬼会」の際に置かれた施餓鬼棚。
流水潅頂は、この下でおこなわれた
「『人間は生かされている』ということを感じてもらえる取り組みをしていきたい。『命が宿る山』である大山に来れば自然の恵み、命の連鎖、自分の命を感じてもらえるはずですし、自分の命を感じることができれば、より大切な他人の命の重みも感じることができると思います。また自然への畏怖心も忘れてはなりません。そうしたことがわかれば、いじめもなくなるでしょうし、簡単に他人を殺めてしまうことも少なくなるはずです」
大山寺は観光地としてのではなく、「信仰の中心」として復興をめざしており、その基本姿勢が「ご先祖様に会える寺」であり、「命が宿る山」ということだ。
・柳田國男の不朽の名作 『先祖の話』の世界が、いまも息づく山陰の霊魂観
島根・鳥取の二県の村里で、盆の「精霊」を「コナカレさん」などといっているのは、疑いなく「このあかり」という唱えごとから出ている。今でも十三日には墓や川戸の傍らに火を燃やして、盆さん盆さん このあかりでございやあし と、何度も何度もくりかえすものがある、ということである。
この文章は柳田國男著『新訂 先祖の話』「このあかり」(石文社、205頁~206頁)からである。
2013年8月15日・16日と鳥取県大山周辺を見て歩いた。この2日間は、同地域のお盆の「送り火」に当たる。
おばあちゃんと孫で火の付いた「おがら」を持つ。
鳥取県大山町羽田井地区の「捨て墓」にて
「こなかり、こなかり、 じいさんも、ばあさんも、 いなはい、いなはい」
8月16日の午後、墓参(鳥取県大山町羽田井地区の「捨て墓」)に来ていたおばあちゃんは、「『いなはい、いなはい』とは、『帰りなさい、帰りなさい』という意味」と教えてくれた。
13日、14日の「迎え火」の際は、「こなかり、こなかり、ござい、ござい」。「『ござい、ござい』は、『来なさい、来なさい』ろいう意味」という。
来たり、帰ったりするのはお盆の「精霊」。つまり、ご先祖様である。子孫たちはお盆になると、この言葉を発し、ご先祖様を迎え、送ってきた。お墓の近くで「おがら」に火を付ける。それを手に持ち、お墓の前で円を描いたり、お墓の周りを歩きながら、言葉を発するのである。
多くの人が「送り火」のために、墓参に訪れた
(鳥取県大山町羽田井地区の「捨て墓」にて)
『先祖の話』にある「盆さん盆さん このあかりでございやあし」に似た言葉が、現在でも残っているのに深い感動を覚えた。
同日午後4時、「万灯(まんどい)」と呼ばれるお盆の「送り火」が始まった。大小2本の大きな松明に火を灯す。大きな松明が男性、小さな松明が女性。松明は地区に住む若者たちがつくったもの。
近くの竹やぶから適当な長さの竹を切り出し、それが芯となる。その周りに萱(かや)と藁(わら)を巻くが、それらを用意するのは地区にある家々で、萱は初盆を迎えた家の役目。
また萱を必ず外側にしなければならず、藁に比べて萱のほうがよく燃えるといい、きっと、「初盆の精霊を早く送りたい」という思いが込められているのであろう。
「万灯(まんどい)」と呼ばれるお盆の「送り火」が始まった。
(鳥取県大山町羽田井地区の「捨て墓」にて)
若者たちは午後1時に地区の広場へ集合し、区長をはじめとする年長者の指導のもとに松明を形づくっていった。年長者たちも、若い頃は松明づくりをしていたといい、こうして代々、松明づくりの伝統が受け継がれていくのである。
地区の広場に竹、萱、藁を集め、若者を中心に大小2本の松明をつくった。
その松明を立てる作業も若者たちの役目
松明を前に、地区住民のすべてとも思われるほどの老若男女が集まった。現在のように「埋め墓」の前で「送り火」をするようになったのは、40年ほど前からのこと。それ以前は初盆を迎えた家々が近くの川に集まり、送り火をしていたという。
誰がいい出したのか不明だが、「公民館が主体になって、集落全体で『埋め墓』の前で送り火をしたらどうか」という声をきっかけに、現在に至っているそうだ。
精霊送りは、供花を交換することでも
15日の夕方、鳥取県琴浦町赤碕にある花見潟墓地でも「おがら」に火を付け、「送り火」をする光景が数多く見られた。
日が暮れたあとも墓参に訪れ、それぞれ「送り火」をしていた(花見潟墓地)
「このあかり」のような言葉を耳にすることはできなかったが、墓参のようすを見聞きするなかで、「『先祖の話』を読んだことがある」という元高校教師に出会うことができた。また、「柳田國男の父親である松岡操(みさお)が明治中頃、私塾の講師として赤碕に住んでいたことがあった」と教えてくれた。何かご縁を感じた。
花見潟墓地では、この日、供花を取り換える光景も多く見られた。それは単に新鮮な花に差し替えるのではなく、「女郎花(おみなえし)」から「シブキ(ヒサカキ)」への交換である。
お墓の供花を「女郎花」から「シブキ(ヒサカキ)」へ交換する(花見潟墓地)
『先祖の話』「無意識の伝承」には、「『粟花(女郎花)の黄なる花の穂』に『みたまの宿り』を想像した時代もあった」(同203頁)とあり、「シブキ」は「仏花」とされることから、供花の交換も、「精霊送り」を意味しているのであろう。
「しゃーら舟」による精霊送り
「東北では『オソレァ』、近畿地方では『ソンジョ』といい『シャアラさん』という人も多く、九州南部では『セロ様』とさえいっている」(『先祖の話』「幽霊と亡魂」同123頁)
「精霊」には方言があり、各地で様々な呼び方がある。鳥取県西伯郡では、無縁仏のことを「シャアラさん」と呼んだそうだ(『改訂 綜合日本民俗語彙』平凡社)。
15日午後、花見潟墓地を訪れる前に、赤碕町内にある初盆を迎えられた井勝さんのお宅を訪問した。精霊を送り出すための「しゃーら舟」を拝見させていただくためである。
「しゃーら」とは前述のとおり「精霊」の方言。つまり、「しゃーら舟」とは、「精霊舟」のことであり、鳥取県赤碕・東伯地区では古くからの慣わしで、初盆の家では、小さい木造の帆かけ舟に「西方丸」(「西方極楽浄土」からとったもの)と舟名を書き、また帆布には新仏の戒名と俗名を書いて、さらに提灯を取り付け、スイカ、野菜、お菓子などの供物を乗せて精霊を送り出した。
井勝さんのお宅にあった「しゃーら舟」は、その年の5月亡くなられた井勝強さん(享年84歳)のためのもの。仏壇の前に置かれ、また近所の人たちが、「しゃーら舟」を前に家の外からお線香を上げられるようにもなっていた。
井勝さんの家に置かれた「しゃーら舟」。家の外からお線香を上げられるようになっている
翌16日は、午前9時前には「しゃーら舟」を送り出す親族、その制作者、「しゃーら舟」を漁船に乗せて沖合まで運ぶ船員らが赤碕港に集まっていた。また出港前には僧侶が加わり、「しゃーら舟」の前で読経、親族らは焼香した。
午前9時10分、「しゃーら舟」4艘を乗せた漁船1艘が出港した。この日は快晴で、海は穏やか。真夏日だったが、乗船中は暑さを感じず、「しゃーら舟」を送り出すには、最高の天気だった。
井勝さんのお宅にあった「しゃーら舟」と一緒に漁船へ乗り込んだのは、故・強さんの長男で、井勝家の5代目に当たる久喜さん。代々、漁師をしていた家であり、強さんも漁師だった。
「祖父も『しゃーら舟』で送り出し、その時は父が船に乗り込み、送り出す役目でした。祖母が亡くなったときは、『しゃーら舟』を出していませんので、私の家では男の場合だけだったようです。祖父のときは、『しゃーら舟』が福井県の海辺に流れ着き、そこで再度、供養をしてもらいました」
故・井勝強さんのための「しゃーら舟」。無事に送り出すことができた
久喜さんは現在、岡山在住で赤碕には住んでいない。つまり、漁師ではない。「自分が死んだとき、『しゃーら舟』で送り出されるかどうかわからない」と久喜さん。子供はいるが、自分も含め赤碕に住んでいないため、そのときのことはわからないということだ。
久喜さんはその日の午後、今度は強さんをはじめ、先祖が眠る赤碕町内にある墓地で、「送り火」をするということであった。
日本の美しき先祖祭の継承を
柳田國男翁が『先祖の話』を書いたのは昭和20年5月23日(初版発刊は昭和21年4月15日)。いまから70年以上前に書かれた内容が、手にとるようにわかる大山周辺での二日間であった。賽の河原、ご先祖様が帰る山、流水潅頂、「このあかり」の言葉、万灯、舟による精霊送り……。
つまり山陰の霊魂観は、『先祖の話』そのものであり、山陰には「日本人の霊魂観がいまも息づいている」ということだ。この二日間で目にした多くの人々の墓参や精霊送りの姿は、美しいの一言であり、この長い歴史に育まれた日本の先祖祭を、しっかりと継承していかなければならないと思う。
※ 取材協力/田部石材株式会社(島根県安来市)、有限会社姫田石材店(鳥取県琴浦町)
※『月刊石材』2013年9月号より転載
・柳田國男著『新訂 先祖の話』(石文社)
柳田國男の不朽の名著『先祖の話』を、柳田の没後50周年を記念し、読みやすくリニューアルして出版したのが『新訂 先祖の話』(石文社)です。現代かな使い、新漢字、専門語・難解語にふりがなと脚注、別注を付けた新編集。巻末には索引も収録しています。
なお、本書は第2版(市販用)としての発刊です。
■著者:柳田國男 ■新訂版 監修リライト:小畠宏允、校閲:田中正明
■四六判変形 カバー装 本文332頁 自序6頁 口絵4頁 索引付き ■第2版発行:2012年8月8日
■定価:1,980円 (税込)
※ご注文は下記からお願いします。
石の世界がグッと広がるオンラインショップ「いしぶみ」
https://www.ishicoro.net/SHOP/ohaka001014.html