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「庵治石」の誕生とその謎に迫る! ―「街角地質学者」こと名古屋市科学館主任学芸員・西本昌司氏に聞く

2021.01.20

――そもそも庵治石は、いつ頃できたものなのでしょうか?

西本氏 日本はもともとユーラシア大陸の東縁の一部でしたが、およそ2,500万年前頃から大陸の縁に裂け目ができ、約2,000万年~1,500万年前頃(新生代新第三紀中新世)に大陸から分かれて日本列島(島弧)となりました。つまり、もともと大陸の一部で日本列島の土台となった岩石(基盤岩類)と、大陸から分かれて日本列島となった後にできた新しい岩石の両方が存在することになります。

 1億年~6,000万年前(中生代白亜紀~新生代古第三紀)は、火山活動が活発だったようで、付加体(海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む際、海洋プレート上部の海底堆積物がはぎ取られ、大陸の縁に押し付けられてできる地質体)のなかにできたマグマだまりが固まった花崗岩類が、長野県南部から中国地方、九州北部にかけて広く分布しており、その岩石の特徴によって山陰帯、山陽帯、領家帯に区分されます。昔はよくわからなかったのですが、最近になって山陰帯から領家帯へ行くほど地下深くで生成されたものだとわかっています。

 このうち庵治石は領家帯に属し、その一部の地域で「細粒黒雲母花崗岩」が採掘されているわけですが、その生成年代は過去の論文等を見ると約8,300万年前頃(中生代白亜紀後期)とされています。つまり、日本列島ができる前の大陸時代にできた岩石ということです。


――どのような方法で岩石の生成年代を測定するのですか?

西本氏 岩石に含まれる放射性同位元素の存在比率を調べて測定します。たとえば代表的な放射性同位体であるウランは年代の経過に伴って放射線を放出して鉛に変化しますが、そのウランと鉛の割合を調べることで、およその経過年数を調べることができるのです。

 庵治石の場合、主にルビジウム・ストロンチウム法とか、カリウム・アルゴン法などで年代測定されています。また最近、岩石の生成年代について新しい測定法が確立されたこともあって、科学博物館などで日本国中の岩石を調べ直しているはずです。そのデータが公表されると、生成年代が少し変わってしまう可能性はあります。

――庵治石の主な採石場は3ヵ所、すなわち庵治半島中央部にある五剣山(通称・八栗山)から西側に延びる尾根(北側が庵治町、南側が牟礼町)を女体山と呼んでいて、その西側に位置する「大丁場」、北側を「庵治山丁場」、南側(主に白羽神社の山林)を「野山丁場」と呼んでいますが、庵治半島全体に目を向ければ、同じような石材を採ることはできるのでしょうか?

西本氏
 庵治・牟礼両町の地質図を見ると、細粒黒雲母花崗岩の分布は、まさしく「庵治花崗岩」と呼ばれ、3ヵ所の丁場はそのなかにあります。周辺部は大粒の花崗岩だったり、花崗閃緑岩や安山岩など別の岩石が分布しており、半島全体で採れるわけではありません。
 
 領家帯で採れる花崗岩に見られる傾向としては、比較的粒の大きいものが多いのですが、そういう石はあまり採石されていません。庵治石をはじめ、同じ領家帯に属す岡崎石青木石大島石など(東日本では真壁石も含まれると考えられている)はいずれも粒が細かく、細工もしやすいので、昔の人はそういう花崗岩を選んで採掘していたのではないでしょうか。

 でもそれは領家帯のなかで珍しいマイナーな存在なのです。それを経験でわかっていたというのはすごいことですね。そういう加工や彫刻に適した石だからこそ選ばれ、長く使われることで銘石となり、それがブランドとなって今も使われているのでしょう。

 ちなみに、山陽帯で採れる花崗岩には、恵那みかげ本御影石、瀬戸内周辺では万成石北木石議院石黒髪島石(徳山石)などがあります。

屋島からを五剣山を望む(2013年撮影、『月刊石材』編集部)