特別企画

お墓や石について、さまざまな声をお届けします。

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか―石造物研究家 大石一久

2022.03.23

末法思想と石塔の広まり

また、石塔造立の背景には“末法思想”も影響しています。当時は、いわゆる“末法の世(よ)”(日本では1052年以降)といって、「お釈迦様の教えが効力をなさない時代(無仏の時代)」と考えられていました。そこで西方極楽浄土の阿弥陀如来による救済や、弥勒菩薩が仏として五十六億七千万年後にこの世に降りてきて人々を救うという弥勒信仰が広まりました。人々は阿弥陀如来や弥勒仏の救済を求め、生前にいろいろな作善(さぜん)を積むようになります。

その一つは、法華経などのお経を書写して固い金属製(銅製など)や石製(滑石=かっせき=製など)の筒に納め、土中に埋める埋経(まいきょう)行為です。これは、ずっとずっと未来にこの世に現れる弥勒仏に生前の作善行為を認めてもらい、救済していただきたいという願望から生まれた行ないで、お経を納めた経塚をつくり、供養を行ない、笠塔婆や宝塔などの石造物を置いて目印(地上標識)としています。

そして、埋葬と石塔の建立もその一つです。現代でもそうですが、特に当時の人々にとって遺骨は単なるカルシウムの塊(かたまり)ではなく、故人の魂(たましい)の依り代そのものでした。その魂の依り代である遺骨のありか(墓)をつくり、守ることで、五十六億七千万年後にこの世に降りてくる弥勒仏に気づいていただこうと考えたのです。そして、そのためには固くて丈夫な素材である石が必要でした。経塚に石を置くのも、同様の理由からに違いありません。

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか 大石一久文治五年(1189)銘の明星ケ鼻経筒(長崎県佐世保市、祇園寺、滑石製)


それまでの墓標植樹(松や榎など)では、いつかは枯れてしまいます。そうではなく、いつまでも未来へと残る固い石でお墓をつくることで、「救済の願いを込めた」というわけです。長きにわたって風雨に耐えうる石塔に、人々は“死後の往生”を託したのです。前にも触れましたが、いわば故人を救うための“唯一の証”が石塔だったのです。

そのような流れのなかで、前述したように、12世紀頃から石塔が出現するわけですが、鎌倉時代初期に書かれた仏教書『覚禅抄(かくぜんしょう)』には、そのありがたい石塔をつくる人の功徳について次のように記されています。

「一に千歳、瑠璃(るり)宝殿に生まれる。二に寿命長遠。三に那羅延力(ならえんりき)を得る。四に金剛不壊身(こんごうふえしん)。五に自在身(じざいしん)。六に三明六通(さんみょうろくつう)。七に弥勒四十九重宮に生まると云々」

つまり、石塔製作に関わる人は7種の福徳が得られるといっているのです。特に7番目には弥勒浄土への往生が挙げられており、死後の世までも約束されました(前掲書『葬式仏教の誕生―中世の仏教改革』)。



長崎県の中世石塔とその分類

さて、私は「石塔から社会を見る」ということを研究の基本的なスタンスにしています。石塔は私にとってとても重要な資料であり、石塔がどこの石材でつくられ、どんな人たちがどんな石塔を建てたか、またそれらがどんな分布をしているかを調べることは、地域の政治的、および社会的な成り立ちを解明するうえで非常に重要です。特に九州に関しては各地に残る古い墓地ごとに、すべての石塔を調査・研究していますが、せっかくの機会ですので、ここで少し、私の地元・長崎県における中世の石塔類を、使用石材と塔の形態や様式などから3つのグループにわけて紹介しておきます。

【緑色片岩製塔】
まず第一が「緑色片岩製塔」のグループです。その分布範囲は、島原半島・北高地区・松浦市今福地区を除く長崎県本土部、さらに五島列島ならびに平戸島などがその範囲に入ります。緑色片岩は西彼杵(にしそのぎ)半島で採れる石材ですが、石塔の最終製作地は確定できません。

しかし、西彼杵半島は、平安末から鎌倉時代を中心に製作された滑石製の石鍋や経筒、笠塔婆、単体石仏、また延久三年(1071)銘入り石造弥勒如来坐像(壱岐鉢形峯出土、国重文、滑石製、奈良国立博物館収蔵=https://www.narahaku.go.jp/)や承元三年(1209)銘の滑石製宝塔(壱岐市、長栄寺)の製作地と考えられており、その伝統的な石工技術が鎌倉時代後期(13世紀後期)からの緑色片岩製塔の製作に深く関与していたものと考えられます。

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか 大石一久承元三年(1209)銘の長栄寺大御堂の宝塔(長崎県壱岐市、滑石製)


実際、西彼杵半島に広く分布する石鍋製作所跡からは粗(あら)削りの石塔が出てきますので、この半島で採石と、ある程度の加工をしていたものと思われます。石鍋製作で培った技術が経筒や石仏、さらには笠塔婆や宝塔などの仏塔の製作にも反映されていたことは、ほぼ間違いないものと思われます。

なお、現在確認されている石塔としては、上に述べた壱岐・長栄寺の滑石製宝塔(1209)が長崎県下で最古ですが、緑色片岩製塔としては、板碑では弘安九年銘(1286、佐賀県嬉野市)、五輪塔では永仁五年銘(1297、長崎県川棚町)のものが、それぞれ最も古いものになります。この五輪塔は地輪が二段造りになっているなど、初期のものにかかわらず、その形態には地方色が濃厚に表れています。

また、緑色片岩の岩層は薄く、せいぜい四方30センチぐらいの採石が一般的です。そのため、他の地域の花崗岩製塔や安山岩製塔などと比べると全体に小型になります。総高100センチぐらいの石塔は、花崗岩製塔などでは中型から小型になりますが、緑色片岩製塔では類例の少ない大型塔となります。

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか 大石一久弘安九年(1286)銘の湯野田類型板碑(佐賀県嬉野市)とその拓本

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか 大石一久永仁五年(1297)銘の五輪塔(長崎県川棚町)。地輪が二段造りになっている