特別企画
お墓や石について、さまざまな声をお届けします。
日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか―石造物研究家 大石一久
④室町時代中期から後期(15世紀半ば~16世紀末)
主に室町前期頃から現れる石塔造立階層の拡大は、室町後期になればなるほど顕著になり、各地に成長してくる小名主、さらには役士層クラスまでもが造立に参加したと考えられます。それが小型で簡略化・画一化された粗雑な石塔類を大量に建塔した背景にあったと思われます。また造立階層の拡大を背景に、この時期の遺跡数・基数はより拡大し、一地域に限っても数ヵ所で確認されるようになります。特に16世紀半ばから末にかけて建塔数は格段に増加し、石塔を造立できる階層の分化がより進展したことを示しています。
つまり、16世紀を通じて、その後の村や郷に相当する地域の単位で、石塔を造立できる勢力が成長してきたことはほぼ間違いありません。
ただ、この時代であっても、造立者が上位階層のものであれば当然、良質の石材を使用した大型塔を建塔しています。その好例としては、大村家十六代大村純伊の墓塔と思われる大永三年(1523)銘の「中庵塔」(大村市・本経寺、緑泥片岩製、推定総高100センチの五輪塔)などが挙げられます。
左:応仁元年(1467)銘の宝篋印塔(松浦丹州盛の墓塔、長崎県佐世保市、東漸寺)
右:大村純伊の墓塔と思われる大永三年(1523)銘の「中庵」五輪塔地輪(長崎県大村市)
⑤キリシタン時代(1549~1614年)
16世紀半ばから17世紀初期にかけて平戸領や大村領、有馬領(島原半島)、長崎市中などではキリスト教が盛んに信仰されました。特に大村領や有馬領では「キリシタン王国時代」というキリシタンに特化した社会ができ、原則、領民全員がキリシタンとなりました。つまり、キリスト教以外は信仰できないという極めて特殊な体制となり、これは日本では大村領と有馬領の二領だけでした。当然、それまでの中世寺院や神社などはことごとく破壊され、僧侶などもキリシタンによって殺されています。
キリシタンの葬法は、仏教的な葬法とはまったく違っていました。仏教では主に坐棺(ざかん)といって、坐した形で葬られましたが、キリシタンは体を伸ばした寝棺(伸展葬=しんてんそう=など)で埋葬されました。そのため、その地上標識(墓石)は自ずと横に伏せる長方形状の長墓(伏碑=ふせひ)となり、五輪塔など縦に長い立石塔とは異なりました。そのため私は、「キリシタンは仏教に関係した石塔を建塔することはご法度で、ザビエルがキリスト教を伝えた1549年以降、キリスト教信者はすべて横に伏せる長墓を築いていたであろう」と考えていました。
ところが、キリシタン墓の全国調査でわかってきたのですが、1500年代後半期のキリシタンは、それまで地元でつくられていた立石塔にキリスト教の洗礼名や十字架などを刻んだ墓碑をつくり、1600年以降でないと、キリスト教独自の横に長い伏碑はつくられていないことがわかってきました。
おそらくキリスト教が伝えられた当初は、仏教の一派みたいな感じで民衆に受け入れられていたのでしょう。ですから仏教の墓塔を使って、そこに洗礼名や十字架などを刻んで墓碑としても、そんなに違和感がなかったのかもしれません。詳細は平成二十四年に発刊しました『日本キリシタン墓碑総覧』(大石一久編著 南島原市教委)をご一読いただければ幸いです。
慶長十一年(1606)銘の土手之元第1号墓碑(キリシタン墓碑、長崎県雲仙市)
元和八年(1622)銘の富永二介妻キリシタン墓碑(長崎県川棚町)とその立石部分の拓本(右)
慶長十五年(1610)銘「吉利支丹墓碑」と、現小口面の拓本(国史跡、長崎県南島原市)
⑥江戸時代(17世紀~19世紀後半)
17世紀初期、日野江藩領(旧有馬領)や大村藩領はキリシタン王国時代で、キリスト教以外の宗教を信仰することは禁止されていました。そのため、主に1610年代までは、キリシタン特有の横に伏せる長方形状の長墓(伏碑)しかつくることができませんでした。
ただ1614年、江戸幕府は全国に向けてキリスト教禁止令を出し、キリシタンを撲滅するため死後の世界にまで規制を加えました。幕府の掟(おきて)で「墓石は(伏せるのではなく)立てて、戒名を刻むべし」と定められ、長細い立石塔を墓とし、戒名を刻むことが義務化されたのです。要するに、それまでの伏せたキリシタン墓碑とは対照的に、仏教徒の証として、縦型の立石塔に一元化したのです。
そのため日本全国どこでも同じような墓塔が建てられ、墓地景観もほぼ同じようになっていきました。現在まで続いている戒名付きの立石塔は、「私はキリシタンではありません」と表明するための証でもあったのです。
⑦庶民層はいつ頃から石塔を建てたのか
中世の長崎県において、明らかに庶民層(無姓者層=姓を持たない階層)による造立と考えられる石塔は、いまのところ1基も確認されていません。この点は博多を除いた九州全域でもほぼ同じです。
では、いつ頃から庶民は石塔を建てることができるようになったのでしょうか。
長崎県域で無姓者層が寺院に自家の葬送を永続的に委託する習慣、つまり檀家制度が本格的に持ち込まれたのは、一般にいわれるように、キリスト教禁止の対策として江戸時代初期から用いられた“寺請制度”の普及以後と考えられます。そして無姓者層のなかで最初に墓石を建てられるようになったのは、平戸や長崎市中などで活躍した裕福な町人層でした。その時期は、寺請制度普及以後の17世紀後半、特に元禄年間(1688―1704年)以降と考えられ、それを示す石塔(前述のように、伏碑ではなく立石塔)も実際に確認されます。
ただし、一般の百姓身分となると相当に遅くなり、18世紀半ば以降になってやっと建てることができるようになります。石材も近在のものが多く使われ、同じような景観の墓地が集落ごとに営まれるようになるのです。実は、この時期(17世紀後半以降)から日本人伝統の先祖供養の具体的な対象が墓石に変化したと考えています。
寛延元年(1748)銘の巨大有耳五輪塔(長崎県大村市、本経寺)。大村藩第七代藩主大村純富の墓塔で、総高は約7メートル
現段階で長崎県で最古の逆修塔(前出、永仁五年〈1297〉銘五輪塔、長崎県川棚町)