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日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか―石造物研究家 大石一久

2022.03.23


いつ、誰が石塔を建てたか

中世の石塔は、造立者や被葬者を特定するのは困難ですが、少なくともどういう階層の人々が建てることができたのか、その造立階層を明かにすることは可能です。この研究は中世の社会を研究するうえで欠かすことのできないテーマであり、非常に重要な意味を持っています。

中世における石造物、特に埋葬に関わる石塔類は、その建塔年代を遡ればのぼるほど、一部の上位階層に限定されてきます。この点は中央(畿内)と地方、九州内にあっては博多など一部の地域とそれ以外の地方で異なった表れ方をしてきますが、ここでは主に長崎県下での中世石塔の造立階層についてお話ししましょう

①平安時代後期から鎌倉時代中期(12世紀末~13世紀半ば) 造塔者は、国司(こくし)などの有力官僚や有力高僧など、一部の上位クラスの人々であったろうと思われます。県下における石塔のはじまりがこの時期からで、埋経行為(末法思想)にともなって1200年前後に造立されています。その背景には、末法思想の広まりを前提に、12世紀に九州一円に伝播したといわれる熊野(くまの)修験(しゅげん)の影響が考えられます。大分県の国東(くにさき)や臼杵(うすき)などの磨崖仏などは、その代表的な事例です。

長崎県では、壱岐島の鉢形(はちがた)山より出土した延久三年(1071)銘の石造弥勒如来坐像(前出・写真なし、壱岐鉢形峯出土)に、造塔者として「正六位若江糸用」という名が刻まれ、しかも実際に石仏をつくった人物として「肥後仏師慶因」などの名が刻まれています。この石仏は体内が底からえぐられていて、それは埋経を目的としたものと考えられますが、製作者銘が刻まれた日本最古の石仏としても有名です。

その他、滑石製経筒(前出の文治五年〈1189〉銘の佐世保市針尾・明星ケ鼻経筒など)や、それとほぼ同時期の滑石製宝塔(前出、壱岐市、長栄寺、承元三年〈1209〉銘)、笠塔婆(波佐見=はさみ=町・東前寺など)などが造立されています。これらは故人のための墓塔というのではなく、五十六億七千万年後に出現する弥勒菩薩の功徳にあずかるために埋納された経筒の目印(地上標識)として建てられたように思われます。

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか 大石一久経塚周辺に埋められていたと考えられる滑石製の単体仏(長崎県大村市、12世紀)

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか 大石一久称念寺笠塔婆塔身(長崎県諫早市小長井町、12世紀)


②鎌倉時代後期から南北朝時代(13世紀後半~14世紀後半)
この時代から、石塔のほとんどは墓塔として造立されてきます。造塔者は、中世有力寺院の高僧や有力名主層以上の限られた少数のクラスと考えられます。実際、造塔者が限定されていることから基数は非常に少なく、また数少ない有力者による造塔を裏付けるように一般に大型塔で占められています。

現在、石塔類は五輪塔や宝篋印塔、宝塔など、主に25種に分類されていますが、それらがほぼ出揃うのも鎌倉時代です。繊細な平安後期の石塔(宝塔など)に対し、高度な彫出技術を活かした鎌倉時代の石塔は雄渾(ゆうこん)で、見る者を圧倒する造りとなっています。まさに日本の石塔が完成した時代というべきでしょう。

ただ、次の南北朝時代から室町時代前期になるにしたがい、石塔は次第に形式化していきます。室町期になると、造立階層の拡大により小型化が進み、形態にも形骸化・簡略化の傾向が顕著に表れてきます。

また、鎌倉時代の遺跡数は非常に限定されます。一般的には一地域(現在の市単位)で1ヵ所程度です。つまり、地域が限定され、また造立階層も限定されますので、鎌倉期の石塔が建塔された場所は中世における各地の政治や社会の中心地、またその周辺範囲を示していると考えられます。ですから、石塔の資料的価値は高いと評価されるのです。

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか 大石一久正和五年(1316)銘の東光寺跡宝塔(長崎県大村市)


③室町時代前期(14世紀前半)
この時期、一部の地域で複数の法名を刻んだ「交名(きょうみょう)碑」が確認されます。このことから、階層分化の進展を背景に、造立階層が次第に拡大し、小名主層まで造塔に参加していたと考えられます。この点は、遺跡数の拡大、さらには石塔自体の小型化傾向、形態の形骸化という傾向とも符合します。

長崎県では東彼杵地区で、この時期の交名碑が五基確認されます。また大村市萱瀬(かやぜ)地区と佐世保市内でも、それぞれ1基ずつ確認されています。この交名碑の出現は、それまでの伝統的な有力名主層が分化・崩壊して各地域に小名主が成長・独立し、その後の村・郷に近づく地縁的な郷村制が成立していく過程を示していると考えられます。

ただ、この伝統的有力名主層の分化・崩壊の過程は、県下全域に共通する傾向というよりも、東彼杵などの一部の地域に限定された傾向のように思われます。そのため室町前期における造立階層は、それまでの中世有力寺院の高僧や有力名主層以上といった少数の上位クラスがまだ主流であり、この時期から一部の地域にあっては、小名主層までが造立に参加できる環境が出来上がったように思われます。

日本人はなぜ、お墓を石でつくってきたのか 大石一久複数の法名を刻んだ、文安四年(1447)銘の宝篋印塔基礎(長崎県東彼杵町法音寺郷)