いしずえ

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松江藩の御止石「来待石」、まだまだあります!!

2022.09.25

その他

●『月刊石材』2022年3月号掲載


松江藩の御止石「来待石」
まだまだあります!!

 

 島根県松江市で採掘されている来待石(凝灰質砂岩)は、古くは古墳時代の石棺に使われ、中世には石塔や石碑、また石段・敷石・石垣などにも使用された。江戸時代になると、灯ろうや狛犬などの彫刻品もつくられるようになり、北前船によって北海道から九州まで、各地に来待石製品が運ばれた。

 耐火性があることから、かまどや掘りごたつの火床にも利用され、来待石粉は石州瓦や石見焼の釉薬としても利用された。こうしてさまざまな価値を持つことから、来待石は江戸時代、松江藩の許可を得ずして他藩へ持ち出すことができない「御止石(おとめいし)」と呼ばれた。

 ただ昨今、来待石の使用量は激減。丁場もほぼ1ヵ所という状況になってしまったが、その埋蔵量から考えると、これまでに全体の1割も採っていないことから、「来待石」はまだまだあるということだ。

来待石の丁場

来待石の丁場は現在、勝部美喜男さんが採掘する上段写真の丁場ともう1ヵ所になってしまった。採掘は現在、チェーンソーを使って行なわれている(下段・左)。丁場には昭和廿一(二十一)年八月の文字が残り、手掘り時代のものだ(下段・中)。石州瓦や石見焼の釉薬として使われている来待石粉(下段・右)

 

 「来待石を切り出すにあたって、山に機械が入ったのは昭和40年代。それから作業効率があがり、採石量も増えました。機械が入る以前の石切りは、つるはしを使った手作業で、私も半年ほどやりましたが、『とてもやっていられない』とお手上げで、一度は他の仕事に就きました(笑)。しかし、石切りが機械化されたことで再び山に戻り、今日に至っています。来待石の埋蔵量から考えると、これまでに全体の1割も採っていないでしょうから、来待石はまだまだあります」 

勝部美喜男さん勝部美喜男さん(74歳)

 来待石(凝灰質砂岩)の採石を半世紀にわたって続けている勝部美喜男さん(以下、美喜男さん)はそう話す。名刺には「石切業 来待石 石山」と書かれ、また丁場の写真も載せており、来待石の石切りに対する思いが伝わってくる。「はっきりはわからないが、4代前くらいから石を採っているのではないか」といい、来待石の採石に代々、携わってきた家の出身だ。

 来待石の採石は現在、美喜男さんが石切りをしている丁場のほかに、もう1ヵ所でも行なわれている。ただ、そこでの採石は自社で使う分だけであり、美喜男さんの採石量が来待石の出荷量の大半という状況だ。

 古くは古墳時代の石棺に使用され、江戸時代には「御止石」と呼ばれて松江藩の許可なく販売することができなかったほど珍重されてきた来待石。昭和40年から50年ごろの最盛期には40前後あった採石業者も現状はほぼ1業者といえ、来待石も他の国産石種と同様に、需要の減少により採石の継続が危うくなっているのが実情である。

来待石の丁場勝部美喜男さんが現在採掘する来待石の丁場から、来待石の丁場跡地を望む


 明治時代から来待石を加工してきた株式会社勝部石材店(島根県松江市)の勝部栄治社長は、現在の需要についてこう話す。

「来待石は昨今、墓石材としての需要はないに等しく、伝統的工芸品『出雲石灯ろう』としての出荷がほとんどです。住宅の洋式化や安価な中国製品の影響などで、需要はかなり減っていますが、各地に来待石、『出雲石灯ろう』のファンがいますので、全国への出荷はいまも継続しています」

勝部栄治社長勝部栄治社長(46歳)
 

 (株)勝部石材店は墓石や仏壇を販売する大型の店舗を持つが、現在でも「出雲石灯ろう」を自社加工する数少ない石材店である。勝部社長は2代目で、来待石灯ろう協同組合の理事も務め、来待ストーン(来待石の歴史や文化などを紹介する博物館)の研究員、日本造園修景協会の上級造園修景士でもあり、46歳になる勝部社長は、来待石の未来を担うホープの1人である。

 「出雲石灯ろう」は、庭つきの一戸建てが全国的に普及した高度成長期から需要が増加し、昭和51(1976)年には、石製品で初めて「経済産業大臣(当時、通商産業大臣)指定伝統的工芸品」に認定された。昭和50年後半までは、納品が半年や1年待ちの状態が続き、昭和50(1975)年生まれの勝部社長は、灯ろうをつくる多忙な職人姿を見て育ったという。

出雲石灯ろう(春日)の火袋を加工する伝統工芸士の笠谷博さん(株式会社勝部石材店にて)